アルフォンソ13世

アルフォンソ13世/wikipediaより引用

スペイン

結婚式のパレードで爆破事件 スペイン国王アルフォンソ13世のドタバタ

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
アルフォンソ13世
をクリックお願いします。

 

五男二女に恵まれ最初は夫婦仲も良好

結婚後、二人は8年の間に五男二女に恵まれ、当初夫婦仲は良好でした。

うち一人は死産、二人は血友病になってしまったが、これは仕方のない話です。

しかしアルフォンソ13世は血友病を持った子供を産んだことで、ヴィクトリアを遠ざけるようになってしまいます。

それは予めわかっていたはずですし、自分がプロポーズしているわけですし。

わざわざ言葉も文化も違う国に嫁いできてくれたのに、あんまりな話です。

その後アルフォンソ13世は手当たり次第に他の女性へ手をつけ、庶子を生ませていきました。

アルフォンソ13世の子供たち/wikipediaより引用

中にはヴィクトリアの従姉でスペイン王族と結婚していたベアトリスという女性もいましたが、ベアトリスは毅然と拒んだようです。そりゃ、従妹の夫を寝とるようなことはできませんよね。

しかしこれはスキャンダルとして世間に受け止められ、マリア王太后の意向でベアトリスと夫・子供はイギリスへ追い返されてしまいました。

つまり、アルフォンソ13世は自らの家庭と妻の親戚の家庭、両方を壊したことになります。ひでえ。

 

第一次世界大戦で中立国のスペインは景気向上

国王一家の状況も良いとはいえませんでした。

世界情勢もまた暗雲が立ち込めていきます。

やがて第一次世界大戦が始まったのです。

アルフォンソ13世は母后がオーストリア出身、妃がイギリス出身ということで、スペインとしては中立を保つことを決意します。

その配慮を王妃自身にも向けてやれと。

中立国のメリットである軍需産業で儲け、スペインは大航海時代以来の景気といわれるほど儲けました。

しかしその恩恵を受けたのはお金持ちだけで、インフレ&日用品の価格高騰によって庶民の懐事情は悪化していきます。戦時あるあるですね……。

戦後、母方の親戚である最後の皇帝・カール1世の妻子を保護しているので、優しさがないわけではなかったようなんですけども……。

カール1世は第一次世界大戦の敗戦に伴う譴責(けんせき・悪行を責められること)によって流刑になっており、最後の流刑先であるポルトガル領マデイラ諸島・フンシャルで亡くなっていました。

崩御した当日は、アルフォンソ13世はまだ知らせも届いていなかったのに「そうしなくては」と思ったんだとか。

虫の知らせってヨーロッパでもあるものなんですかね。

 

フランコの台頭でスペイン王家は名目だけに

その後はたびたび政治改革を試みるものの、失敗して政治不信を招く悪循環。

スペイン政府のお偉いさんが次々に暗殺されるようになってしまいます。

さらには軍人を高職に据えて王権を保とうとして失敗し、共和制政府が興ったため、アルフォンソ13世は1931年にイタリアへ亡命します。

亡命中に、孫であり後のスペイン王となるフアン・カルロス1世が誕生。

亡くなる直前にこの四男のフアン王子に譲位しましたが、そもそもその頃のスペインはフランシスコ・フランコの独裁になっていたため、名目だけに終わりました。

フランコはアルフォンソ13世がスペインにいた頃軍人になっていることからか。

王室に対して嫌悪感などはなかった様子です。

アルフォンソ13世死去に際して「時が来たら必ずスペイン王室に棺をお迎えする」と弔辞を送ったとか。

実現したのはフランコの死去後ですけれども。まあ、建前を表に出すだけでもマシなほうかと。

 

孫のファン・カルロス1世がスペイン王に

なお、フランコは自らの後継者という名目でアルフォンソ13世の孫であるフアン・カルロス1世(先代のスペイン王)を指名。

暗に王室復活を認めました。

これによって、現在もスペインは王制(立憲君主制)になっているわけですね。

ちなみに、王妃ビクトリアはスペインから亡命した間にアルフォンソ13世と別居するようになり、その死後もスペインに積極的に戻ろうとはしませんでした。

彼女の死後は同じスペイン王家の墓に葬られているのですが、それが幸せだったかどうか……。

いくら厳しい時代だったとはいえ、いや、そういう時代だからこそ。

社会の最小単位のひとつである夫婦仲を重視しても良かったのでは?と思ってしまいます。

長月 七紀・記

【参考】
アルフォンソ13世(スペイン王)/wikipedia
ヴィクトリア・ユージェニー・オブ・バッテンバーグ/wikipedia

TOPページへ

 

-スペイン

×