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【ワーグナー】
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三月革命で指名手配を食らってスイスへ亡命
こうして音楽家としての地位が確立した……かに見えましたが、ときはナポレオンに揉まれまくった後の19世紀です。
1848年、35歳の時にワーグナーは【ドイツ三月革命】と呼ばれる大騒動に参加してしまいます。
この辺の話はややこしいので、ドイツ側から見て端折ると
「フランスで王様廃止する感じになってるっぽい。俺らも王様打倒して何とかしようぜ!」
みたいな感じです。
不特定多数のノリと勢いって怖いですよね。日本も米騒動でたびたびやってますが。
このドタバタにより、ワーグナーも指名手配をくらい、9年もの間スイスへ亡命することになってしまいます。
この間に代表作の一つ「ローエングリン」を書いているのですが、作品だけはドイツへ入れたようで、作曲者だけが演奏を聞けないという切ない事態になってしまったとか。
ついでにこの間、「メンデルスゾーンは金にがめついユダヤ人の血を引いているから、芸術家になんてなれない」(意訳)というものすごい暴言の含まれた論文を書いています。
現在だったら確実に人権問題ですね。
さらに、この頃はプライベートでも複数の女性とアバンチュールをしていたので、そういう意味でも人間的にどうなの……という気はします。
奥さんのミンナとはドイツに帰国するまで別居しており、再会もできたのですが、結局ヨリを戻すことはなかったとか。
芸術家とは、常識はずれの言動をする人が多いものです。
ワーグナーの場合は、突飛というより単に我が強い感じの行動がどうにもこうにも。
派手な異性関係による借金が原因で演奏できないだと!?
とはいえ、性格よりも才能が評価されるのが芸術の世界です。
51歳のとき、同じく(?)アレな言動で有名だったバイエルン王・ルートヴィヒ2世に招待されます。
当時ワーグナーはコジマという女性と不倫をしていたことがわかり、バイエルンには居着きませんでしたが、金銭的な援助は多く受けました。
現在も残っているバイロイト祝祭劇場は、ルートヴィヒ2世の援助で作られたもの。
「ワルキューレの騎行」を含むオペラ「ニーベルングの指環」はこの劇場で初演されました。
が、ワーグナーは自分で演出したにもかかわらず初演が気に入らなかったらしく、再上演を望んでいたとか。
別の演出家に頼んでより良いものにして欲しかったのか、それとも歌手や奏者を変えたかったのか。
どちらにせよ、はたから聞いていい気分にはなりませんね。
しかも再上演ができなかったのは、ワーグナー自身の借金の多さが大きな理由になったと言いますから、余計に厄介です。
奥さんとうまくいかないところまではまあいいにしても、複数の女性と付き合ったりするから余計にお金がなくなる……。
ワーグナーは、自分でも女性への依存傾向があることを自覚していたようで、最晩年にそういった論文も書いていました。
内面が弱いからこそ、極端に他人を攻撃したり、派手な異性関係をわざと作ったりしたのかもしれませんね。
そう捉えれば哀れにも思えますけれど、付き合わされるほうもたまったものではありませんねえ……。
何というか、人間素直が一番ということでしょうか。
長月 七紀・記
【参考】
『大作曲家たちの履歴書(上) (中公文庫)』(→amazon)
『大作曲家たちの履歴書(下) (中公文庫)』(→amazon)
リヒャルト・ワーグナー/Wikipedia