喜望峰

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ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を通過!最初の発見者はバルトロメウ・ディアス

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ぐるっとまわってケニアからインドへ

大航海時代のヨーロッパ諸国というと「ドス黒いにも程がある!」――そんな話ばかりですが、ヴァスコ・ダ・ガマは比較的穏やかに現地人と接しています。

ヴァスコ・ダ・ガマ

ヴァスコ・ダ・ガマ/wikipediaより引用

現地のお偉いさんにお土産を渡して周辺事情を教えてもらおうとしたのですが、やはり異文化コミュケーションには手間取り小競り合い→物別れに終わってしまったのですけども。

弓矢や砲撃での戦いはありましたが、皆殺しにしなかっただけ(当時としては)温厚なほうですね。

運よく現在のケニアにあるマリンディという町でインド人と接触することができたため、彼はインドへの航路を見つけることに成功します。

ケニアはインド洋側の国ですから、そこからは順調にインドへ渡ることができました。

しかし、現地との習慣の違いにより、海賊と間違われてまたしても不穏な空気が一時漂います。

ヴァスコ・ダ・ガマもそこまでは気が回らず、なかなか交渉が進まない上に、武力行使をちらつかせたインド側に対し、ついにキレてしまいます。

そしてインド人の人質を取ったまま帰国を決めてしまいました。あーあ(´・ω・`)

 

壊血病で多数が死亡 帰国者は1/3

しかし帰路では風に恵まれず。

その上、壊血病その他で船員の多くが亡くなり、三隻あった船のうち一つを焼却処分して編成しなおさざるをえなくなります。ダイナミックですね。

本国へたどり着いたときには約三分の一の人数になっていたといいますから、当時の長距離航海がいかに難度の高いものだったか。

船旅の壊血病が解決するのも、大航海時代から300~400年が経過する18世紀末以降ですから仕方ないですが。

アジア方面の植民地化が南北アメリカ大陸より後になったのは、こうした事情から大量の兵を投入できなかったという面もあったのでしょう。

ヴァスコ・ダ・ガマはその後、無事に帰国。

一度航海からは離れますが、インド総督に任じられたため再びインドへ向かいました。

この間、別の人がその役目をしたこともあるのですが、乱暴すぎたため再びヴァスコ・ダ・ガマに仕事が回ってきたのです。

とはいえ、彼も二度目にインドを訪れたときにはかなり手荒いことをしているのですけどね。

どうしてこうなった……とも言いたくなりますが、最初の交渉で比較的穏便にしていたのに海賊呼ばわりされたのですから、彼ならずとも大いに気分を害したことでしょう。

異文化コミュニケーション難しい。

ヴァスコ・ダ・ガマのサイン・提督にして伯爵と書いてあるそうです/wikipediaより引用

 

三度目のインド赴任で客死

こうして二度も大きな功績を挙げたヴァスコ・ダ・ガマは、ポルトガル王からさらに領地とお金をもらい、大貴族に匹敵する立場と財産、そして奥さんを手に入れました。

これを見たヨーロッパ諸国は我も我もと海外へ。

大航海時代及び植民地主義、ひいては帝国主義が強まっていきます。

ちなみに、ヴァスコ・ダ・ガマは三度インド方面の担当に抜擢されています。

三回目の理由も「後任が乱暴すぎてうまくいかないから何とかしてきて」(超訳)というものでした。ポルトガル人どんだけ短気やねん。

しかし、お役目を引き受けた彼も既に60才であり、インドのコーチンという町で病に倒れてしまいます。

これだけ信頼され、富を築けてやりがいある仕事ができたのですから、客死とはいえまあまあ良い人生だったのではないでしょうか。

喜望峰通過後・15世紀ポルトガルの植民地や拠点・日本にまで届いていますね/wikipediaより引用

ヴァスコ・ダ・ガマ自身の功績、そして子孫達がやはり海に関する仕事をしていたためか、彼の名は現在ポルトガル海軍が持っている軍艦の等級にも使われています。

一番早く就役した船はまんま「ヴァスコ・ダ・ガマ」といって、既に20年以上使われているとか。

ヴァスコ・ダ・ガマは約30年ほどインドへの航海や統治をしていましたので、本人に似て長持ちしているのかもしれませんねえ。

長月 七紀・記

【参考】
『ラルース図説 世界史人物百科〈2〉ルネサンス‐啓蒙時代(1492‐1789)』(→amazon
ヴァスコ・ダ・ガマ/wikipedia

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