慶長五年(1600年)3月16日、オランダ商船・リーフデ号が豊後(現大分県)に漂着しました。
1600年は、関ヶ原の戦いが行われる日本史大転換の年。
中心人物の一人・徳川家康は、このリーフデ号の漂着により
英国人ウィリアム・アダムス(三浦按針)
和蘭人ヤン・ヨーステン(耶楊子)
という2名の外国人と接触を持ち、後の外交方針に大きな影響を受けます。
一体どんな経緯でそうなったのか?
振り返ってみましょう。
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100名以上の乗員は20数名に激減
リーフデ号がオランダを出たときは五隻の船団でした。
途中で難破したり、引き返したりしたため、無事、目的地の日本に到着できたのはこの一隻だけ。
乗組員も当初は100人以上いたのに、日本に着いたときには20数名だった――という戦争並に厳しい生存率です。
目的は当時「極東」と呼ばれていた東アジアとの交易でした。成功すれば莫大な利益を手にすることができるとはいえ、ここまでするど根性も凄まじいですよね。
リーフデ号そのものは現存していませんが、船尾に飾られていたというエラスムス(オランダの神学者)の像だけは今も残っています。
旗本の一人が貰い受けたのを、菩提寺である龍江院というお寺(栃木県佐野市)へ寄贈したそうで。
「ちょっと変わった仏像」として残されたらしいです。
いや……確かに手の感じとかは少しだけ仏像っぽいですけどね。なんだか景気の悪そうな顔で……。
うーん、四天王とか明王系の像だと思えばまだイケるかな? なんと言いましょうか、ちょっと怖い。
ウィリアム・アダムスとヤン・ヨーステン
さて、この船には江戸時代の外交に関わることになる人物が二人乗っていました。
イギリス人ウィリアム・アダムスと、オランダ人ヤン・ヨーステンです。
正確に言えば当時はイングランドと神聖ローマ帝国ですけども、こまけぇこたぁいいんだよ。
アダムズは若い頃、初代海賊紳士フランシス・ドレークの指揮下でアルマダの海戦に参加したこともある度胸の据わった船乗りでした。
この航海には弟と共に参加していて、弟は途中立ち寄った場所の先住民に襲われて亡くなっています。
ヤン・ヨーステンはどういう役割をしていたのかよくわからないのですが、もともといいお家の生まれだったので、そこそこ良い地位についていたと思われます。
※以下は三浦按針(ウィリアム・アダムス)の関連記事となります
三浦按針(ウィリアム・アダムス)は関ヶ原直前の家康に何をもたらしたのか?
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スペイン&ポルトガル vs イギリス&オランダ
日本に着いた彼らは、当初、海賊と勘違いされ、罪人同然の扱いを受けました。
誤解であることがわかると徳川家康との会見になります。
徳川家康はなぜ天下人になれたのか?人質時代から荒波に揉まれた生涯75年
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これには当時の宗教事情も絡んでおりました。
先に日本である程度地盤を築いていたスペイン・ポルトガルの宣教師はカトリックで、プロテスタントであるイギリスやオランダのことが気に食わなかったのです。
そのため「プロテスタント共は海賊ですから、何か起きないうちにふんじばったほうがいいですよ!」と家康らに吹き込んでいたのでした。
アダムス達がそれらを含めたヨーロッパ事情を事細かに説明したため、疑いが晴れ、家康に気に入られます。
関ヶ原の戦いが起こる直前に、そんなヤリトリがあったなんて、ちょっと胸熱。
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