1918年(大正七年)6月1日、ベートーベンの「第九」が国内初となる演奏が板東俘虜収容所で行われました。
年末にあっちこっちで演奏されてるアレですね。
プロだけでなく、趣味の合唱サークルなどでも年末のお題になってたりしますね。
今は某新世紀なアニメのイメージも強いでしょうか。
日付から明らかなように、当初は年末に演奏されたわけではありません。
では一体いつ日本に伝わり、いつから年末のものとされるようになってきたのでしょうか。
中国大陸進出で欧米とドンパチ
勘のスルドイ方は何となく検討がついたかもしれませんね。
1918年といえば、第一次世界大戦中。
そしてベートーベンといえばドイツ。
そう、日本の「第九」初演は第一次大戦のドイツ人捕虜達によるものだったのです。
「第一次世界大戦ってヨーロッパ戦線だけでしょ?」
と思った方もいるかもしれませんが、そこには当時の世界状況が絡んできます。
当時は欧米諸国が中国大陸へ進出しようとしていた時代です。
「隣がアイツらに取られるとウチもヤバイ!」ということで、日本も切り取る側に参加しています。
当然、そこで欧米諸国とぶつかるわけで、その中にドイツも含まれており、日本に捕虜が連れて来られていたのでした。
余談ですが、中国人にとってはこの状況「な、なにを言っているのか(ry」って感じだったでしょうね。
遠く離れた国と近所の国が自分のシマで勝手にドンパチやらかしている。
清王朝がアヘン戦争その他諸々でぶっ飛んでしまったため、団結して他国に抵抗できなかったからなんですけど。
さらに言うなら、このときの敵味方が第二次大戦では一部入れ替わってるんですから、もう節操ない。
4,700人も捕虜がでて困った日本
かくして日本とドイツは中国大陸で戦うことになりました。
が、日本側の予測よりはるかに早い段階で決着がついてしまいます。
しかもドイツ側の降伏で。
降伏した相手を殺してはいけない=捕虜にする、というのは戦争の大前提。
ということは、早い段階での降伏=捕虜を大量に預からなくてはいけないということになります。
このとき降伏してきたドイツ兵の数、実に4,700。
分散させるにしても、これだけの大人数となると既存の施設だけでは不可能でした。
そのため日本側は慌てて捕虜収容所を作るのですが、間に合わず一時はかなり劣悪な環境になってしまったそうです。
よくこのタイミングで訴えられなかったなあという気もしますが、ドイツ本国はまだまだ戦闘真っ最中だったのでそれどころではなかったのでしょうね。
「西洋ではどんなもん食ってんだべ」
その後ろめたさもあってか、収容所ができた後はドイツ人捕虜の扱いはかなり改善されました。
板東俘虜収容所(徳島県鳴門市)はその中でもかなり好待遇だったといわれていて、出入りする日本人の商人だけでなく、周辺住民とも交流していたそうです。
そもそもここに来たのは志願兵=民間人だったこともあり、元々の職業は、服の仕立て屋さんや、床屋さん、各種の職人などでした。
こうした技術を生かして食品や工芸品、あるいはサービスを日本人へ提供することで商売を成り立たせることもできたそうです。
日本人のほうでも「西洋ではどんなもん食ってんだべ」ということで、まさにwin-winだったとか。
「第九」初演も、彼らの中で音楽に通じた人々によるものでした。
この収容所では以前からたびたび西洋音楽の演奏会を開いていたそうで、地域住民のなかにはこれをきっかけに西洋の楽器を始めた人もいたとか。
なぜ「第九」だったのかは判明していないようですが、近年になってから当時の捕虜が残したメモ書きや演奏メンバーの写真なども見つかっているそうなので、いずれわかるかもしれません。
「音響の良い場所がありません!」
↓
「なら風呂場で練習しようぜ!」
とか
「女性(女声)がいません!」
↓
「高いパートは編成しなおしだ!」
とか
「低音楽器がないです!」
↓
「オルガンで代用しろ!」
などなど、一筋縄ではいかなかったようです。
それでもこの曲を選んだということは何かしっかりした理由があったのでしょうね。ぜひ知りたいものです。
日本に残ったドイツ捕虜がお菓子のユーハイムを創立
年末に「第九」が演奏されるのが全国へ広がっていったのは、意外にも第二次大戦後のことでした。
日本中が生活苦にあえいでいた頃ですから、楽団員たちもその例外ではありません。
そこで既に人気が確立していた曲であることに加え、必要人数が多い=多くの団員がお金を稼げる曲だということで、「第九」が年末に演奏されるようになったのです。
戦時中に「ドイツでは大晦日に第九を演奏する」ことが伝えられていたのも後押しになったかもしれません。
この習慣が今でも続いており、ドイツのみならず日本でも「第九」は年末の風物詩になったのでした。
ちなみに板東俘虜収容所はその後解体されてしまいましたが、元捕虜の中には日本にとどまる道を選び、お店を開いた人もいました。
製菓会社のユーハイム、ハム・ソーセージ製造のローマイヤなどが代表的な例です。
ちなみに同様の逸話は千葉県の習志野俘虜収容所にもあります。
どっちも食べ物がらみの話がすごく多いんですけど、日本人って考えることが全く変わってないんですね。
また、ドイツへ帰った人々の中にも「日本はいいとこだったな。もっといろいろ知りたいな」ということで日本や中国の文化を研究し、学者になった人もいたそうです。
後には日本語・中国語の教科書も出版されたそうですから、静かなブームになってたんですかね。
きっかけが戦争でなかったらもっとイイ話だったんですけど、それはまあ仕方ない。
なお、坂東俘虜収容所では、会津藩出身の松江豊寿所長が好待遇をしたというお話で有名で、映画化もされています。
坂東俘虜収容所を舞台にした映画『バルトの楽園』(→amazon link)
長月 七紀・記
【参考】
第九/wikipedia
板東俘虜収容所/wikipedia