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纒向遺跡は新造都市!邪馬台国と神武東征の謎解きが楽しい『邪馬台国からヤマト王権へ』

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毎年のように「邪馬台国の有力候補地、纒向(まきむく)遺跡で新たな発見」という考古学ニュースを目にする。

たいていその時期は年があけてから春にかけてなのだが、これは地元の奈良県桜井市が予算をつけて計画的に発掘調査をしているためだからだ。税金を使っているので、毎年「成果」が求められるのでニュースとして発表される。

一方、そうした政治的・予算的なバックアップがない九州側は、大型公共工事で大きな発見があるなど偶然に頼るしかなく、定期的に「邪馬台国の有力候補地の九州の◯◯遺跡」というニュースが流れることはない。
こうして、邪馬台国論争は露出からしても、だんだんと畿内説が有利になっていくのだが、その可否はともかく、「邪馬台国」候補地の纒向遺跡とはなにかをわかりやすく紹介するのが、地元の奈良大学のブックレット『邪馬台国からヤマト王権へ』(ナカニシヤ出版、2014年)だ。
この本の纒向遺跡の最新情報をもとに、邪馬台国から古墳時代への移りかわりについて考えてみた。

畿内説でも、九州説でも異論がないのは、纒向遺跡が箸墓古墳をはじめとする前方後円墳の発祥の地であることだ。
ただ、これは古墳時代の始まりを意味するだけで、卑弥呼と邪馬台国はその前の弥生時代末なので、ボーダーライン上にあるのが纒向遺跡といえる。

まず重要なのは、纒向遺跡が「新造都市」だということだ。
この場所は、縄文時代の終わりに大規模な土石流災害があり、弥生時代を通じてほとんど人間が住める土地ではなかった。(7頁)
弥生時代の祭祀の代表である銅鐸が地中に埋納される段階(2世紀末頃)に、突如姿を現わす。しかも、弥生時代までの集落遺跡としてはかなり大規模な1㌔四方のエリアを持っていた。
そしてその50年後くらいの3世紀中頃過ぎには、さらに東西2㌔、南北1・5㌔に拡大する。
さらにさらに、その50年後くらいの4世紀初めには、突然、纒向遺跡は解体されてしまうのだ。

 

生活臭のない「都市」

ここまで評者があえて「都市」といっているが、厳密には都市の定義にはあてはまらないだろう。しかし、纒向遺跡から出土した鋤(すき)を見ると、土木用が95%で、農耕用はわずか5%しか出土していない。通常の遺跡では、この比率が逆転して、土木用20、30%で農耕用は80、70%なのだ。
水田や畑の遺構もこれまで見つかっていない。
纒向遺跡が農業生産を伴わない、「都市的な住民」がいるといってもイメージとしてはそれほどずれたものでないだろう。

では、ここに住んだ人たちはどんな人たちだったのか。まさに都市らしく、全国から集まっていた。地元の大和以外では、多くの東海地方、北陸、山陰の人々が集結していたことが土器の分析から判明している。「大体十人のうち一・五人から三人は大和の人ではない人が纒向にいたということになるかと思います」(19頁)となる。

一方で、九州の土器が非常に少ないことが知られている。
このことから、「九州VS大和」の戦いがあった、とよく言われている。しかし、纒向遺跡からは北部九州系の鍛冶の遺物が見つかっている。本来は「秘中の秘」である鉄加工の技術を惜しげもなく持ち込んでいることから、人数は少なくとも、九州勢力としても「新造都市」の建設に積極的に関わっていた、「オールジャパン」の事業だったことが浮かび上がる。
ただ、このトップシークレットの鍛冶の遺物は、領域が拡大した第2次纒向遺跡時代の3世紀後半段階にならないと見つかっていない。
最初の段階から九州勢力が参画していたかは疑問が残る。

 

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「神武東征」はなかった?

ヤマト王権の発祥は、日本書紀や古事記の伝承から九州勢力が東へと勢力を広げて遷都したという「神武東征」史観がある。イメージとしては明治維新で西の勝者が都を京都から東京へ移したようなものだ。
だが、考古学からは、九州から大和への人の流れが極めて量的に少ないことから、「神武東征」はなかったと認識されている。
その大きな根拠は、出土する中国鏡の数だ。纒向遺跡の時代を境にするように、中国鏡の数が九州優位から、大和優位へとがらっとかわるのだ。
それは九州の人たちが大和へ移動しただけではないか、つまり東征ではないのか?と思うかも知れない。
しかし、本書で白石太一郎奈良大教授は以下のように言う。
「いわゆる庄内式土器と呼ばれている3世紀の前半から中葉くらいの土器の時期というのは、日本列島各地で土器が活発に移動する時期なのです。
ただこの時期、北部九州の土器は、ほとんど瀬戸内海沿岸各地や畿内地方に移動していない。ただ、その逆は見られるのです。
吉備の土器、それから数は少ないけれど畿内の土器、あるいは出雲の土器などは、北部九州に移動しています。
鉄資源や先進文物の入手ルートの支配権をめぐって玄界灘沿岸地域の勢力とそれより東の畿内・瀬戸内勢力が、相争い、その争いに畿内・瀬戸内勢力が勝利を治めた結果と考えてもいいのではないかと思っています」
こう述べているように、考古学からはむしろ「西征」であるとの主張が主流である。

ただこの根拠は「量」の少なさである。じつは「量」をもって「東征」はなかったとは言えない。
神武東征の神話をよく読めば、そもそも神武は大軍勢で東征をしていない。率直によめば、非常に少ない人数である。実際に大和側との戦いでは何度も負けているほどだ。

纒向遺跡を作った人々は一枚岩ではない。全国から集まっており、核となる勢力がない。
なぜ新都市を造ったかというと、北部九州に牛耳られていた中国からの鉄の輸入を「中抜きしよう」という経済的な目的が第一義であった。つまり、そこに突出した権威はいないので不安定なものだった。
一方、北部九州側も、「九州以外全部」という纒向連合は脅威だったはずだ。そこで、第2次纒向時代に合わせて、両者が「合併」したのではないだろうか。
その際には多少の小競り合いなどの戦いもあっただろうが、人数的には極少ない北部九州の「王族」が虎の子の鍛冶の技術を持って纒向に「王」として移ってきたこともありえるのではないか。

 

200年の空白の謎も神武東征を後押し?

実際に、この時代の大きな謎もそれを裏付ける。
謎というのは、1世紀後半の中国の後漢鏡が、なぜかその200年もあとの3世紀後半から4世紀の畿内の古墳から大量に出土していることだ。(69頁)
後漢鏡は1世紀後半の段階では北部九州の墓に集中して埋納された、九州の王族たちが中国のおすみつきを使って権威の証しとしたものである。

これを200年たってからわざわざ、「利用」する価値を見いだした理由とは、、、それは「神武東征」であった!と、派手派手しく大げさな仮説をかかげて、幕を閉じたい。

これからも纒向遺跡が古代史研究の最前線となることは間違いない。800円(税別)で100頁強と読みやすいので、歴史ファンはぜひ一読してほしい。



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