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古田織部は大名じゃなかった可能性も!? 東京大学・本郷教授の「歴史キュレーション」

更新日:

 

日本中世史のトップランナー(兼AKB48研究者?)として知られる本郷和人・東大史料編纂所教授が、当人より歴史に詳しい(?)という歴女のツッコミ姫との掛け合いで繰り広げる歴史キュレーション(まとめ)。

今週のテーマは【古田織部は大名じゃなかった可能性も!?】です。

 

【登場人物】

本郷くん1
本郷和人 歴史好きなAKB48評論家(らしい)
イラスト・富永商太

 

himesama姫さまくらたに
ツッコミ姫 大学教授なみの歴史知識を持つ歴女。中の人は中世史研究者との噂も
イラスト・くらたにゆきこ

 

◆武家流の茶、織部に命じたのは… 「秀吉説」覆す資料  朝日新聞 9月17日

古田織部/wikipediaより引用

古田織部/wikipediaより引用

本郷「へー。秀吉ではなくて徳川秀忠。なんとなく徳川家の人たちって、家康にしても秀忠にしても、文化的なことには興味がないのかなあ、って印象があったので、面白いね」
「『豊後の岡藩の家老、豊後古田家』とあるけれど、これについて説明して」
本郷「はいはい。織部の奥さんは、摂津の武将、中川清秀の妹にあたる。彼は義兄の清秀とともに羽柴秀吉方として合戦に参加していて、清秀が賤ヶ岳の戦いで戦死すると、清秀の跡取り、秀政の後見を務め、小牧・長久手の戦いや、つづく紀州征伐、四国平定戦にも秀政と共に出陣しているんだ」
「まるで中川家の家老職みたいね」
本郷「そうみえるでしょう。その感覚があとで生きてくるから、忘れないでね。それで秀吉が関白になると、織部はそれまでの功績を賞され従五位下織部助に任ぜられたんだ。このとき、義父・重安の実子にあたる重続を古田家の本拠である美濃から呼び寄せ、長女と結婚させ、中川家の家臣とした。この重続の子孫は、織部の正系が絶えた後も中川氏の家老として存続した」
「豊後の岡藩というのは?」
本郷「ああ、中川家は江戸時代、岡藩7万石の大名として存続していく。中川のお殿様に家老として仕えたのが、古田家というわけさ」
「ああ、つながった。岡城って、石垣がとても立派で、滝廉太郎の『荒城の月』のモデルになったお城の一つなのよね、たしか」

本郷「もうすこし詳しく言うと、作詞の土井晩翠が詞を構想した時に参考にしたのが仙台市の青葉城、会津若松市の鶴ヶ城。作曲の滝廉太郎が曲を構想した時に参考にしたとされるのが大分県竹田市の岡城、同じく富山市富山城といわれる。あとどうでも良いことなんだけれど、結核で惜しくも夭折した滝廉太郎は、ぼくの小学校の先輩なんだ」
「どこだっけ?え?千代田区立麹町小学校ですって、ふんふん。まあ、それはさておいて、あなたさっきヘンなことにこだわっていたわよね。織部が中川の補佐役でどうの」
本郷「ああ。織部が補佐していた当時の中川家は、5万石くらいの大名だった。それで、そのあとで従五位下織部助に任ぜられた織部は、秀吉の直属の部下になった、と解釈できる。そうして、それでまでの中川の重臣としての位置に重続を置いた。こう考えると、つじつまは合うよね」
「そうね。だけど、そこから何が言えるのかしら」
本郷「甲州征伐に中川清秀とともに出陣したときの織部は300貫とってたという。1貫は当時は3~5石くらいだとすると、1200石くらいか。5万石の中川清秀を支える存在としてはいい感じでしょ。その織部が、秀吉の直接の家臣になったからって、一躍大名になるのかなあ。通常の説明だと、彼は山城・西岡3万5000石を与えられた、と言われてるんだけどね。明証があるわけじゃないし、どうもそこにひっかかっちゃっってね」
「多すぎるんじゃないか、っていうことね」
本郷「うん。多いんじゃないかなあ。それから、朝鮮出兵の時に織部は150人の兵を連れていた、とある。かれは朝鮮半島には渡ってないみたいだけれどね。もし彼の所領が近畿地方にあるとすると、軍役は『100石あたり兵3人』の取り決めのはず。つまり彼の所領は5000石という計算になる。これくらいがいいところじゃないかなあ」
「えー。大名じゃなかったかも、って考えてるの?」
本郷「あくまでも、可能性だけれどね。利休の代表的な弟子である『利休7哲』のうち、芝山監物に瀬田掃部は1万石もらっていない。江戸時代的にいうと、上級旗本だね。織部もそんな一人じゃなかったかな」
「えー。『へうげもの』には山城・西岡3万5000石の大名ってなってたわよー」
本郷「うん。まあ、そうだけれどね、それから、彼が西岡を与えられたとすると、彼の前のこの地域の領主は細川幽斎で、勝竜寺城の城主だったんだ。その幽斎と息子の忠興が丹後に移ったあとに織部が西岡のあるじになったはずなんだけれど、彼は勝竜寺城に関わった形跡がないよね。このあたりも不自然な気がするんだなー」
「ふーん、謎は深まるばかりね。じっくり考えてみてね」

 

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◆中国・南宋時代の茶碗は12億円…米NYで落札 読売新聞 9月17日

本郷「日本の美術品が高値で売却されたわけか。こういう記事は喜んでいいのか、悲しむべきなのか。ん?『1935年、輸出に文化庁長官などの許可が必要な重要美術品に認定されたが、2015年9月に取り消されていた』ってなんだろう?」
「ああ、その茶碗は『重要美術品』だったってことよ」
本郷「それで、その指定を取り消して、売ったの? 外国に売りたいからって、そんなに安直に取り消せるの?」
「ああ、そのことね。少しは知ってるから、説明するわね。現在、日本の財産であるところの文化財は『国宝』と『重要文化財(重文と略称する)』の二段階で指定されているのは知ってるわよね?格上が『国宝』、それには及ばないかな、というのが『重文』」
本郷「うん、それは知ってる。あれ?でも、最近はやりの刀剣を見に行くと、『重要美術品』という肩書きが記されているのを多く見るよ。『国宝』でも『重文』でもなくてね」
「そうね。そう書かれているものは多いわね。でもね、実は現在は、『重要美術品』というカテゴリーは、厳密には、ないのよ。それは半世紀以上前の分類なの」
本郷「え?それは知らなかったぞ」
「戦前、多くの美術品が海外に売却されたでしょう?それを憂慮して1933年(昭和8年)に『重要美術品等ノ保存ニ関スル法律』が制定されたの。それで、この法律によって、価値ある文化財の海外輸出には文部大臣の許可を必要とすることが決められた。この法律に基づいて認定されたものを『重要美術品』と称したのね。それから、細かいことだけれど、重要美術品については『指定』と言わず、一貫して『認定』の語が用いられる」
本郷「ふんふん」
「そのあと戦後の1950年、現在も生きている『文化財保護法』が施行されて、文化財は『国宝』もしくは『重文』の指定を受けることになった。そのときに、かつての『重要美術品等ノ保存ニ関スル法律』は廃止されたの」
本郷「じゃあ、そのときに『重要美術品』はなくなったのかあ」
姫「あわてないで。旧『重要美術品等ノ保存ニ関スル法律』によって認定された物件(約8200件あったという)については、『文化財保護法』施行後も、同法附則の規定に基づき、『当分の間』、その認定効力を保つこと、とされたのよ」
本郷「ん?じゃあ、法律はなくなったものの、『重要美術品』という資格は生きていたわけなのかな?」
「そういうことね。『重要美術品』の認定が取消されるのは、(1)『重要文化財』に指定された場合と、(2)『重要美術品等認定物件』の海外輸出が許可された場合の2つに限られているのね。それで、ここが大事なことなんだけれど、『当分の間』という状況が、今も続いているのよ」
本郷「えー。60年以上たっているのに?」
「そうなのよ。『重要美術品』の中には、『重要文化財』になったもの(そこから更に、格上の『国宝』に指定されたものもある)、今回みたいに海外に売却されたもの、いまだに『重要美術品』のままのものがあるわけね」
本郷「どれくらいの数が、海外に売られたのかな?」
「私もよく知らないのだけれど、海外への輸出が許可されて認定を取消されたものは、1950年から2008年(平成20年)までの間に25件。2008年現在、旧『重要美術品等ノ保存ニ関スル法律』による認定の効力を有する物件は6千数百件、というデータがあるわね」
本郷「なるほどねー。勉強になりました。ありがとう」

 

 

 

【編集部より】

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