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その日、歴史が動いた 中国 女性

中国三大悪女の一人・西太后 嫉妬深く、ライバルたちを虐殺したのは本当か?

更新日:

一度イメージが固定化されてしまうと、真実が伝わるまでには時間がかかるものです。
歴史の場合、特に女性の評価についてはその傾向が強いのではないでしょうか。
本日は、お隣の国からそんな感じのお話です。

道光十五年(西暦1835年=日本では天保六年)、10月10日は、悪女として有名な西太后が誕生した日です。例によって立場が変わるごとに名前も変わっているのですが、一番有名な「西太后」で統一しますね。

ついでにいうと、西太后は皇帝の正妃ではありません。東太后という別の女性が正妃で、宮殿内の住まいの位置によって東・西といわれていました。
となると「さぞ対立したのでは?」と思われる方もいらっしゃるでしょうが、東太后のほうが立場が上で、かつ政治への関心が全くなかったことが幸いし、この二人は表立った対立はしていません。水面下ではあったかもしれませんが。

「悪女」のイメージが一人歩きして、意外に本人を見たことがない方もおられるのでは?西太后/Wikipediaより引用

 

皇帝・咸豊帝(かんぽうてい)の后の一人として後宮へ

西太后の父親は清王朝の官僚でした。

が、赴任先で太平天国の乱(清朝末期のキリスト教的宗教団体の反乱)の対処に心身ともに疲れきってしまい、そのまま亡くなったといわれています。
入れ替わるかのように、うら若き西太后はときの皇帝・咸豊帝(かんぽうてい)の后の一人として後宮に入りました。
その四年後には男の子(後の同治帝)を産んでいるので、そこそこ気に入られていたものと思われます。

咸豊帝の時代に、清は、アロー戦争その他でヨーロッパにやりたい放題やられてますので、さぞかしストレスも溜まっていたでしょうね。カワイソス(´・ω・`)

そのためか30歳という若さで咸豊帝は亡くなってしまったのですが、その跡を継ぐべき息子の同治帝は、まだ5歳。こうなると生母である西太后が補佐をするか、咸豊帝の時代から高官が補佐するかで争うのはもはやテンプレの展開ですよね。

西太后はこれに対し、咸豊帝の弟を味方につけ、高官たちを一網打尽にして実権を握りました。
同治帝は成人・結婚を期に親政を行うつもりでしたが、19歳という若さで亡くなってしまったため実現せずに終わっています。死因は梅毒とか天然痘とか。若すぎる死だったので、西太后による毒殺説もありますね。

 

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感情のままに動くヒステリックな女性ではない!?

同治帝にはまだ子供がいなかったため、今度は後継者問題も起こります。ホントどこまでテンプレを重ねるんだ。

清王朝では名前に「戴」という字がつく人は、皇族であっても皇帝にはなれないという慣習がありました。しかし、西太后は慣例を破って載テン(さんずいに恬という字)という人物を光緒帝として帝位につけました。彼が西太后の妹の子供、つまり西太后の甥っ子だったからです。

そんな無茶振りをしていて数年後に東太后が亡くなったため、これも西太后の差し金だと思われることが多いようです。
しかし、東太后は45歳でしたし、上記の通り政治的な対立もほぼなかったと思われるため、実際は東太后の死因は脳卒中だろうとされています。日頃の行いって大事ですね。

光緒帝はそこそこ西太后のお眼鏡にかなったらしく、光緒帝の成人後には親政が行われています。
三年間は西太后が摂政のような形で政治に関わるという条件付きでしたが、西太后は光緒帝の皇后に自分の姪っ子を勧めているので、個人間の感情としてはさほど悪くはなかったのではないでしょうか。

そんな感じで黒い陰謀をにおわせつつ、政治を取り仕切ってきた西太后でしたが、決して感情のままに動くヒステリックな女性ではありませんでした。

最たる証拠は、「洋務運動」を推進して清王朝を少しだけ持ち直させたことです。ヨーロッパの技術を清でも採用して、国力を高めようというもので、「和魂洋才」ならぬ「清魂洋才」というところでしょうか。当時は「中体西用」というスローガンでした。

国家が後押ししているわけですから、それなりに規模が大きく、近代的な艦隊が作られたりもしました。成功していれば、おそらく中国の歴史だけでなく世界史にも大きな影響を与えたでしょう。

しかし、財源不足と日清戦争での敗北によって、洋務運動は下火になってしまいます。
お金が足りなくなった理由は、西太后の長寿を祝う祭典での出費だとか、陸海軍の間で予算がうまく折り合わなかったとか、いろいろあるのですけども。

 

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クーデターを起こして、可愛がっていたハズの光緒帝を幽閉

このタイミングで上記の「三年間の摂政」が終わり、光緒帝は本格的に親政へ乗り出していきます。
が、相変わらず西太后の元には政治に関する報告や、光緒帝の言動が逐一報告されており、一歩引いたとはいえ権力は持ち続けていました。

光緒帝は親政を開始すると、日本の明治維新を参考に、清の体制ごと変える政策をとろうとしました。
が、それまでの慣例などにより権力を持っていた高官たち、そして改革には賛成だけれども急速すぎてついていけない人たちによって、成功とはなりません。

西太后は当初「あの子にどこまでやれるか見てみましょう」というスタンスでいたのですが、あまりにも高官たちから「何とかしてくださいよ(´;ω;`)」(※イメージです)と泣きつかれるので、少しずつ口を出すようになっていきます。
そしてとうとうクーデターを起こして光緒帝を幽閉し、また西太后が政治を引っ張っていくことになりました。

このとき一気に光緒帝を廃位しようとしましたが、諸外国の反対で実行に移せず、かなりストレスをためていたようです。
まあ、外から見れば「せっかく近代化しようとしていた皇帝を押しのけて旧体制に戻すなんて、あの女何を考えてるんだ?」と思われたでしょうからね。
しかし、ここで西太后の動きを後押しするかのような事件が起きます。
教科書でもお馴染みの「義和団の乱」です。

 

義和団有利と見るや諸外国に宣戦布告

義和団は「扶清滅洋」=「西洋人を滅ぼして清王朝を助けようぜ!」という方針の一団でした。そこだけ見ればまあ愛国者たちと言えないこともありません。

しかし、義和団の人数が増えるにしたがって、見境なく国内の西洋人やキリスト教徒を襲ったため、少しずつただの暴徒になっていきました。これ、多分混乱に乗じた賊が義和団を名乗ったりしてたんでしょうね。

それにより、清のお偉いさんの中でも「アイツらの動きを利用して清の威厳を取り戻すべきだ!」という義和団賛成派と、「いやいや、やりすぎでしょアレ。こっちで始末しないと、また外国から何されるかわかりませんよ」という反対派に分かれてしまいました。
既に国力が弱ってるのに仲間割れしてる場合かっ!

ちなみにこのとき、日本公使館の職員も殺されています。この時点で大義がどこかに行ってしまっていますね。
諸外国も黙ってはおれず、清にいる自国民を保護するために軍を派遣しました。

西太后は義和団のほうが優勢と見るや、諸外国に宣戦布告しています。が、いよいよ北京まで攻め込まれると、一人(お付きの人は除く)で西安まで逃げてしまいました。
しかも、光緒帝の妃を井戸に投げて殺させ、外国が西太后の責任を問えないように工作までしています。ゲスいゲスすぎる。

 

女性が政治に関わるとロクなことがないという迷信の影響かも

ただし、その後の彼女は、政治改革の見直しを図るため、日本や欧米に高官を派遣したりしています。
即座に許可したわけではありませんでしたが、彼らの奏上した新しい官制や、数年後に立憲君主制へ移行することには大きく反対もしませんでした。
このとき西太后は69歳でしたので、そろそろ死期を悟っていたのかもしれません。

西太后は72歳で亡くなる前に、溥儀を皇帝に推し、その父・醇親王を摂政にしていました。
が、彼女が亡くなってたった3年で清は滅ぼされ、中国の王朝時代も終わりを告げることになります。

総合的に見ると、「いろいろ落ち度はあるが、国政を担える力がある女性だった」ということでいいのではないでしょうか。
「西太后は嫉妬深く、ライバルの妃たちを次々と残虐な方法で殺していった」ともいわれますが、むやみやたらと後宮の女性たちを殺したわけではないですし、幽閉した光緒帝でさえ殺していません。

光緒帝については近年の分析で「ヒ素によって毒殺された」ことが確定していますが、今のところ、西太后がやらせたという確証もありません。
亡くなった翌日に西太后が亡くなっているので、疑われるのは仕方のないことですけれどね。

どちらかというと、清王朝自体を滅ぼしたいと思っていた人のほうがありえそうな気がします。西太后が亡くなれば、光緒帝が復帰する可能性はあったわけですし。
そもそも自分が死にそうなのに、他人を殺してる場合じゃないですよね。しかも既に実権を失った相手を。

彼女に対する悪評が根強いのは、古来から「女性が政治に関わるとロクなことがない」という迷信の影響が大きいのでしょう。

しかし、それは女性に教養や政治に関する学問が与えられなかった時代が長かったからであって、一概に「女性だからダメ」ということではないと思います。女性君主で名君と呼ばれる人もいますし、男性の君主だからといって全員が名君だったわけでもありませんし。

中国史の場合はガチでR18Gもののことをやってのけた女性もいますが。

何にせよ、歴史や女性に限らず「○○だから絶対に××」という考え方は短絡的ですよね。

長月 七紀・記

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参考:西太后/Wikipedia

 

 




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