三重県のヤマトタケルの墓の周りが初めて宮内庁によって発掘調査されたのだとか。
中日新聞が23日に報道しており、ネットではザワザワしています。
日本神話の英雄ヤマトタケルは、西に熊襲、北に出雲、東に東国と全国を制圧しまくったあげく、伊吹山の神様に呪い殺されるという悲劇の英雄です。
ヤマトタケルが死んだのは、伊勢(三重県)の能褒野(のぼの)となっているのですが、ここに宮内庁が陵墓としている日本武尊能褒野墓(能褒野王塚古墳)があります。
この古墳自体は、北勢地域で最大の前方後円墳(90メートル)で、4世紀後半頃とされていますが、未調査です。4世紀だと、ヤマトタケル(モデルが実在したことを前提に)にしては古すぎます。
ヤマトタケルの陵墓は、このほか、河内と大和にそれぞれあります。
今回は陵墓そのものではなく、その周辺で宅地開発が進んだため、境界線を確認するために宮内庁が発掘したとのことです。
なんとまわりには17基もの円墳があるそうで、そのうち9基を調べたところ、6世紀ごろの横穴式石室(4~5世紀だと竪穴式石槨になる)が初めて見つかりました。
報道によると、縦3.7メートル、横1.5メートル。
埋葬施設の大きさから、地域の有力者の墓とみられるとのことですが、もちろんヤマトタケル陵墓も王家というよりは地域の王の墓とみるのが自然です。
ヤマトタケルが白鳥になった地点
さて、ここでヤマトタケルの「死」について振り返ってみましょう。
伊吹山の神にやぶれたヤマトタケルは都を目指してふらふらになりながら、能褒野にまだたどり着き、ここで息絶えてしまいます。
その魂は白鳥となって西の空へ飛んでいくのです。
伊勢の西隣には大和の都(奈良県)がありますから、西へ向かうのは当然でしょう。
ところが、都に戻ると思わせて、なぜかそのまま都の上空を通過して、河内(大阪)の志幾に降り立ちます。
その場所に墓が作られ、白鳥の御陵《みささぎ》となりました。
白鳥陵古墳は大阪府羽曳野市にあります。全長190メートルの超巨大前方後円墳で、5世紀末から6世紀初頭の大王の墓とみられています。
時期的には、こちらはヤマトタケルと矛盾しません。
なぜ大和を通過したのか?
それが白鳥伝説=ヤマトタケルの大きな謎の1つです。
筆者は、ヤマトタケルの物語は実は2つ以上の別の物語を合体したからと考えています。
古い時代の天皇の権威は絶対的ではありませんでした。
もともと建国からして、武力で統一したのではありません。当初の国の形は、古墳という祭祀を共通の価値観に持つ一種の連合体だったのです。
かつての冷戦時代に、民主主義か共産主義かという政(まつりごと)の価値観で東西陣営に分かれ、世界中の国が連合を作っていたのに似ているかもしれませんね。
悲しき若者たちの魂の集合体
祭祀を執り行うことができるシャーマンとしての地位を持っていたのが天皇(大王)でしたから、この当時の天皇や皇族たちは、日本各地を実際に巡幸して、古墳で行われる祭祀に参加していた可能性が高い。
時が経つにつれて、天皇家は祭祀だけでなく世俗的な王としての地位を欲する動きをあらわしていくようになります。
そこで、天皇の息子や親族たちを派遣し、地方の豪族の娘と結婚することで臣従関係を結ぼうとしたと考えられるのです。
こうして全国各地を旅したあまたの若き皇族たちの物語が1人の英雄「ヤマトタケル」に集約されたのではないでしょうか。
特に西(熊襲や出雲征伐)に派遣された皇子(Aさん)が埋葬された河内と、東に行った皇子(Bさん)が死亡した伊勢の能褒野の記憶は、はっきりと伝承していた。
そのため、この2つの逸話をつなげるために白鳥伝説が作り出されたということになります。
魂の集合体「ヤマトタケル」の物語が悲劇であるということは、そのもととなった多くの皇子たちの旅も悲しい結末だったのかもしれません。
実際、考古学的に見ると、4世紀(300年代)に奈良盆地にあった王朝は(皇子たちを全国各地に分散させたためか)衰退。
代わって5世紀(400年代)になると「河内王朝」と呼ばれる新勢力が台頭していきます。
これはヤマトのトップの一族(つまり天皇)が変わったことを推測させます。
悲劇の英雄伝説の中から浮かび上がってくる史実の痕跡が、今回の発掘からも浮かんでくるか、楽しみです。
恵美嘉樹・記(歴史作家)