この言葉、カッコイイと思いません?
初めて聞いたときは全身ブルッとしてしまいましたが、時は慶長20年(1615年)――大坂夏の陣【道明寺の戦い】における撤退戦で、伊達政宗率いる精強の軍を退けた、ある猛将が去り際に悠々と放った言葉です。
その意味は以下の通り。
「関東の軍勢は百万人もいるが、男は一人もいないのだな!」
猛将の名は「真田信繁」――世に言う「真田幸村」その人のことであります。
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九度山の前に高野山
大坂夏の陣を遡ること15年。
関ヶ原の戦いで東軍をさんざん悩ませた真田昌幸と真田信繁(以下・幸村)の父子。
東軍に与した長子・真田信幸(真田信之)とその舅・本多忠勝の取り成しによって切腹を免れ、紀州(和歌山県)へと配流の処置と相成りました。
紀州における真田父子蟄居の地としては「九度山町」が有名で、現在もその屋敷跡があったという伝説をもつ「真田庵(善名称院)」が建てられています。
しかし、九度山へと配流される前、本当は「高野山」に一度配流されているのです。
本来なら死罪となっていたはずの猛将たちが封じ込められた、神仏が支配する深山幽谷の聖地、高野の御山――そんな場所を想像して高野山に行ってみると……ってオォイ!
そこはマチュピチュ?いや、寺院都市!
結構な都会……?でござる。
いや「寺院都市」とでもいいましょうか……?
それもそのはず、山内6つの建造物及び、山上に至る「高野山町石道」が熊野・吉野・大峯とともに「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録されている高野山は、合計117カ寺の寺院を擁する一大山上宗教都市でもあるのでした。
『当代記』によると慶長五(1600)年12月13日、真田家一行は配流先の高野山へと向かい、信州上田城を出発したとあります。
『真田家文書(上)』には、「房州様(昌幸)高野御入御供之衆」として、
「池田長門守」
「原出羽守」
「高梨内記」
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など16人の名が記され、家臣団を引き連れての配流であったことが分かります。
当時は女人禁制であった高野山には幸村の妻子は入れず、山麓の九度山で別れて一行は高野山「蓮華定院」にて仮居することとなりました。
現在でも「蓮華定院」には「宿坊」として宿泊することが可能。
真田家ゆかりの「六文銭」の家紋をあしらったデザインを随所に見ることができます。
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