ヒトラーの着物姿

和服姿のヒトラー/デイリー・エクスプレス紙より引用

ドイツ

ヒトラーの着物コスプレ写真に驚き なぜこんな姿が撮影されたのか

世に著名人のコスプレ写真は多々ありますが、その極めつけともいうべき一枚がこれ。

あのヒトラーの着物姿画像です。

特ダネとして報じた英国のデイリー・エクスプレス紙(→link)も驚愕しています(2015年6月21日付け)。

正装姿で、ちゃんとスワチカの染め抜き紋まで入ってまんがな。

こうしてみると、結構小顔ですなぁ。意外と様になっているのが恐ろしい。

ナチスの制服を着ている時よりもワルぶりが際立つ感じで(汗)。

「このレアな写真は、一見した限りでは残虐な暴君が下手なパントマイムで女性を演じているかの如くという感じだ。しかし、実際は日本の着物の正装姿なのだ」

とエクスプレス紙。

英国人からすれば、そう見えるんですね。

こっちからしたら、実話系雑誌で見かける親分のインタビュー写真を思い起こさせるんですけど。

記事では「ヒトラーが異文化好きではなかったのにもかかわらず」と続いています。

実際『我が闘争』で日本人蔑視の下りがある事を思えば意外ですよね。

 

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日独防共協定の記念で撮影された?

誰が撮影したのか?という点は不明です。

1936年11月25日に締結された【日独防共協定】を記念としてのコスプレだった可能性があるそうです。

以下、ウィキペディア日本語版から抜粋。

防共協定(ぼうきょうきょうてい、ドイツ語: Antikominternpakt)は、1936年(昭和11年)11月25日に日本とドイツの間で調印された共産「インターナショナル」ニ対スル協定を指す。

締結当初は二国間協定である日独防共協定と呼ばれ、国際共産主義運動を指導するコミンテルンに対抗する共同防衛をうたっており、後の日独伊三国を中心とした軍事同盟、いわゆる枢軸国形成の先駆けとなった。

1937年にイタリア王国が原署名国として加盟し、日独伊防共協定と呼ばれる三国間協定となり、1939年にはハンガリー王国と満州国、スペインが参加したことによって多国間協定となった。

1941年には条約の改定が行われるとともにドイツ勢力圏にある複数の国家が加盟したが、枢軸国の崩壊とともに消滅した。

というのが協定の概要。

ざっくり言いますと、交渉開始から締結までの間に、両国の国内勢力で賛否が分かれたり、バラバラに動いたりして、結構迷走したのですね。

ドイツ国防軍は親中路線で、それを受けて交渉中の1936年4月に中華民国へ1億ライヒスマルクの借款を行う援助協定を成立させ、一旦はお流れになりかけそうな時期まであったのです。

以下、再び引用。

協定締結

11月25日、ベルリンのリッベントロップ事務所で協定の調印式が行われた。日本側の全権大使は武者小路駐独大使、ドイツ側はリッベントロップが行った。

協定の内容はドイツ側の提案、すなわち1935年11月のラウマー案の内容を大きく超えるものではなかったが、国防軍の主張通り軍事協定の性格はつかなかった。

協定締結後には祝賀晩餐会が開かれたが、この席にはヒトラー、ヘルマン・ゲーリング、ルドルフ・ヘスといった高官の他、外務省関係者からは外相ノイラート、外務次官エルンスト・フォン・ヴァイツゼッカーらの首脳が参加したが、国防軍からはただ一人カナリスが参席していた。

国防軍はこの場に高官を出席させないことで不快感を示した形になり、またこのような場にカナリスのような地位の人間が出席するのは極めて異例である。

つまり、何とか締結が出来たものの、その場の空気が微妙だったようですね。

ヒトラーにしたら、ホッとしながらも「日本側に何かサービスしといた方がエエかのぅ」という気持ちがあった可能性があります。

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