水夫衆と伊達政宗

伊達政宗/wikipediaより引用

伊達家

鉄砲集団・雑賀衆が伊達政宗の下へ「水主衆」の末裔が3.11で観光客を救う

2025/03/10

水主衆をご存知でしょうか?

「かこしゅう」と読み、その名の通り海運業や水産業、ある時は海賊業なんかにも従事していた人々の事を指します。

古くは『平家物語』でも、源義経が敵の船の機動力を削ぐために兵士より先に集中して射らせた水夫を指す言葉として「水主」の名前が出てきます。

ただ、当時は「お互い戦闘要員じゃない水主衆は狙わないことにしようね」とする不文律があったため、襲われた方も「襲え」と命令された方もドン引きの奇策だったようで。

【将を射んとせばまず馬を射よ】が真理だとしても、この人の空気の読まなさっぷりには、もはや清々しさすら感じられますね。

源義経/wikipediaより引用

それはともかく、今なお

「水主町」
「加古町」

などの地名で、全国にその歴史を残している水主の方々。

今回はその中でも「仙台藩」の水主衆についてご紹介したいと思います。

 

国宝瑞巌寺のため和歌山から仙台へやってきた

仙台藩と言えば、かなりの高確率でどこにでも顔を出すあの方。

伊達政宗/wikipediaより引用

伊達政宗による雇用が始まりとされる宮城県の「水主衆(かこしゅう)」がおります。

実は彼ら、元を辿れば紀州からやってきた水主の人々だったと言われています。

慶長9年(1604年)、政宗公は師である禅僧虎哉宗乙の勧めで、相次ぐ戦乱や火災で廃墟同然になっていた日本三景の一つ、松島の瑞厳寺を復興することを思い立ちます。

瑞厳寺本堂/photo by Tak1701d wikipediaより引用

後に桃山文化の真髄、集大成とも言われることになる瑞巌寺。

その大伽藍建造に際して、政宗公は紀州の熊野山から切り出した建材を船で運ばせることにします。

しかし、紀州の近海には

「紀州灘」
「熊野灘」

と呼ばれる非常に読みにくい潮の流れがあって、そこを越えて松島まで建材を運んでくることのできる水練達者はそうはいません。

近代になってもトルコのエルトゥールル号やノルマントン号がこの辺りで沈没しています。

和歌山県沖で事故に遭ったエルトゥールル号/wikipediaより引用

ちゃんと原因があったんですね。

ましてや方位磁針やアバウトな日本地図さえもなく、庶民は自由に移動する事もできなかった時代。

重い建材を船に詰め込み遭難すること3回、とうとう松島までやって来た紀州の水主衆はすっかり政宗公に気に入られてしまいました。

熊野灘の朝焼け

彼らは政宗公から松島の一画(瑞巌寺の東側)に土地を与えられて「御水主町」を作り、その組頭は屋敷を与えられて伊達家直属の船頭衆となっていくのです。

うん、エエ話ですね。

 


やっぱり政宗 裏があったのか?

いや、ちょっと待ってください。

はるばる紀州からやって来た彼らに与えられた仕事は、他国からの来賓を船に乗せ、松島湾を遊覧する伊達家御座船の船頭や塩田管理などでした。

確かに一定の操船技術は必要でしょう。

夏の松島

しかし「紀州からわざわざスカウトして来るほどの仕事なのか?」とも思ってしまいます。

塩田管理については、藩の財政を支える専売品に関わることで重要です。

闇取引を取締まるため、夜間の海上パトロール&下手人の追跡などで彼らの手腕は大いに発揮されました。

が、仙台藩はもともと気仙沼、石巻、塩釜などの良港に恵まれており、操船や塩田管理に通じたものは他にも大勢いたはずです。

ナゼ紀州から彼らを連れてくる必要があったのか。

政宗公がよほどその腕前に惚れ込んだからだ、とか「まぁ、あの政宗さんですから……」(?)と様々な説が唱えられていて、その中の一説にこんなものがあります。

「水主衆は、江戸を攻めるための水軍として雇われたのだ」

地理的に江戸まで一直線の奥州では、それまで戦に水軍を利用したことがありません。

海と言ったら「魚!」一択のお国柄でした。

しかし、瑞巌寺の造営が始まる1605年頃と言えば、そろそろ各藩の状況も落ち着いてきて金銭的にも多少の余裕が出てくる時代です。

その余裕をガリガリ削るために天下普請(江戸城を造らされるなど)などを幕府から命じられる訳ですが、戦が無ければ内政に余力が向けられるのは当然。

大藩であれば治水や灌漑事業に大金を投入して、あっと言う間に荒地や河川などを開拓することができてしまいます。

仙台藩の石高が事実上100万を超えるのは五代藩主の吉村公以降のこと時代以降ですが、治水、灌漑の成功あって資金に余裕のできた政宗公が「次は何をしようかな~」と思って考え出したのが水軍の編成でした。

と言っても幕府が成立してまだ数年です。こんな時期に水軍を作っちゃったら、当然、幕府から警戒されます。

それを避け自然な感じで水練に通じた者を雇うには?

そうだ、瑞厳寺の資材運搬係として連れて来ちゃえばいいじゃない――という事で選ばれたのが、紀州の海沿いにお住まいだった水主衆の方々、そんな見立てです。

 

鈴木、鈴木、鈴木…あーーーーーっ!

さて、松島と言えば、やっぱりあの景勝ですよね。

上杉景勝(かげかつ)ではなく景勝(けいしょう)です。

瑞厳寺などの桃山様式の建築物と共に、湾内で大小260もの小島が作り出す美観は観光の大きな目玉。

中には人が住んでいる島もあるのをご存知でしょうか?

しかも、その住民の多数が「鈴木」姓なのだそうです。

水主、紀州、鈴木姓――。

これでピンときたあなたは、中々の歴史通でしょう。

そうです雑賀衆です。

戦国時代の紀州と言えば、戦国、いや世界最強の鉄砲集団。

絵・小久ヒロ

雑賀孫一率いる「雑賀衆」が有名で、実は本来の姓は鈴でした。

そして松島湾の島々に住む鈴木さんは、この鈴木孫一の末裔だというのです。

 

他国との交易でいち早く鉄砲や鉄を入手

雑賀衆は、元々は和歌山の紀ノ川河口部に住む海の民でした。

冗談のような鉄砲の所有数や高度な射撃技術。

あるいは石山本願寺で織田信長を撃退し続けたこと等で大いに知られた存在ですが、そもそもは自治を守るため鉄砲で武装するようになった漁民達の集まりです。

織田信長/wikipediaより引用

雑賀の衆が早い段階から鉄砲を所有できたり、原材料となる鉄などを大量に確保できたのは、彼らが船で独自に交易をしていたからなんですね。

そのことからも彼らが「水主」としての腕も巧みだったことがわかります。

源義経同様、全国に「実は生きていた!」伝説がある孫一の事ですから真偽の程は分かりません。

しかし、元々、政宗公は一芸に秀でた人のヘッドハンティングが趣味……ではなく、他国や外国の優れた技術を自藩に導入する気概に溢れておいでの方でした。

孫一本人でなくとも、その親族や雑賀衆のメンバーなどが水主としてやってきて来ても不思議ではありません。

政宗公が松島の水主衆に求めたものは、単に船を操る腕前だけではなく、織田信長をも追い返したその戦闘技術と戦う気骨だったのではないでしょうか。

さらに政宗公は、支倉常長を副使とした慶長遣欧使節をスペインに派遣して洋式の軍艦を手に入れ、その操船を水主衆に任せて江戸を攻めるつもりだったのだとも言われます。

支倉常長/wikipediaより引用

小説などでも採用されることのあるこの設定、政宗公の長女五郎八姫の嫁ぎ先である松平家の家老職にあった大久保長安との密約と並べて「伊達政宗最後の野望」といった感じで良く使われます。

・スペインの無敵艦隊
・幕府の重臣で当代きっての富豪大久保長安との密約
・水主衆

時期的にも近いこれらの事物はいかに繋がるのか?

水練と戦の手腕に長けた水主衆は、実は江戸を攻めるための水軍として雇われた――政宗最後の隠し玉だったと考えると戦国ミステリーの妄想が説得力を伴って大いに膨らみますね。

 


400年来の操船技術で津波被害から守る

現在、松島には湾内の島々を巡る遊覧船のコースがあります。

政宗公はじめ代々の藩主が愛でた美しい景色を我々も手軽に楽しむことができるのですからいい時代であります。

竜や鳳凰など、煌びやかに飾り付けられた遊覧船は大層美しい。

湾内を一周すると、かつて他藩からの賓客を乗せて遊覧したという伊達家の御座船「孔雀丸」「鳳凰丸」に乗ったような気分になることができます。

実はこの遊覧船、3.11東日本大震災では海上にありました。

本震後も揺れ続ける海の上、船頭さんが見事桟橋に船を着けてくれたお陰で、津波が到達する前に速やかに観光客の方を避難させる事ができたのだそうです。

この船頭さんの中には現在も松島町の御水主町にお住まいで、13代目の水主衆として遊覧船の操船をなさっている方もいらっしゃいます。

400年も前(もしかしたらもっと前)から先祖代々受け継がれてきた技倆と生業で人を救うことができたなんて、すごいことだと思いませんか?

和歌山県の串本町橋杭岩

かつて紀州沖の逆巻く渦潮を乗り越えてやってきた人々が、その水練の手腕を今も現代に伝えている松島。

これからもこの町が、桃山文化華やかなりし頃を今に伝える町として残っていくことを願ってやみません。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド


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【参考】
岩本隆『松島町郷土史夜話』(→amazon
佐々木光雄編・吉岡一男編『宮城県の不思議事典』(→amazon

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鈴木晶

出身畑である法学と、趣味の地方の伝説・逸話集めから歴史を読み解くことが得意。 地元をこよなく愛するため、記事は東北モノが中心。 とにかく長い記事で読者の心を5時間くらい放さない。

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