水主衆

和歌山県の串本町橋杭岩

伊達家

鉄砲集団・雑賀衆が政宗の下へ「水主衆」末裔が3.11で観光客を救う

水主衆――。

「かこしゅう」と読み、その名の通り海運業や水産業、ある時は海賊業なんかにも従事していた人々の事を指します。

古くは『平家物語』でも、源義経が敵の船の機動力を削ぐために兵士より先に集中して射らせた水夫を指す言葉として「水主」の名前が出てきます。

ただ、当時は「お互い戦闘要員じゃない水主衆は狙わないことにしようね」とする不文律があったため、襲われた方も「襲え」と命令された方もドン引きの奇策だったようで。

【将を射んとせばまず馬を射よ】が真理だとしても、この人の空気の読まなさっぷりには、もはや清々しさすら感じられますね。

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それはともかく、今なお

「水主町」
「加古町」

などの地名で、全国にその歴史を残している水主の方々。

今回はその中でも「仙台藩」の水主衆についてご紹介したいと思います。

 


国宝瑞巌寺のため和歌山から仙台へやってきた

仙台藩と言えば、かなりの高確率でどこにでも顔を出すあの方。

伊達政宗による雇用が始まりとされる宮城県の「水主衆(かこしゅう)」がおります。

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実は彼ら、元を辿れば紀州からやってきた水主の人々だったと言われています。

慶長9年(1604年)、政宗公は師である禅僧虎哉宗乙の勧めで、相次ぐ戦乱や火災で廃墟同然になっていた日本三景の一つ、松島の瑞厳寺を復興することを思い立ちます。

瑞厳寺本堂/photo by Tak1701d wikipediaより引用

後に桃山文化の真髄、集大成とも言われることになる瑞巌寺。

その大伽藍建造に際して、政宗公は紀州の熊野山から切り出した建材を船で運ばせることにします。

しかし、紀州の近海には

「紀州灘」
「熊野灘」

と呼ばれる非常に読みにくい潮の流れがあって、そこを越えて松島まで建材を運んでくることのできる水練達者はそうはいません。

近代になってもトルコのエルトゥールル号やノルマントン号がこの辺りで沈没しています。

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ちゃんと原因があったんですね。

ましてや方位磁針やアバウトな日本地図さえもなく、庶民は自由に移動する事もできなかった時代。

重い建材を船に詰め込み遭難すること3回、とうとう松島までやって来た紀州の水主衆はすっかり政宗公に気に入られてしまいました。

熊野灘の朝焼け

彼らは政宗公から松島の一画(瑞巌寺の東側)に土地を与えられて「御水主町」を作り、その組頭は屋敷を与えられて伊達家直属の船頭衆となっていくのです。

うん、エエ話ですね。

 


やっぱり政宗 裏があったのか?

いや、ちょっと待ってください。

はるばる紀州からやって来た彼らに与えられた仕事は、他国からの来賓を船に乗せ、松島湾を遊覧する伊達家御座船の船頭や塩田管理などでした。

確かに一定の操船技術は必要でしょう。

夏の松島

しかし「紀州からわざわざスカウトして来るほどの仕事なのか?」とも思ってしまいます。

塩田管理については、藩の財政を支える専売品に関わることで重要です。

闇取引を取締まるため、夜間の海上パトロール&下手人の追跡などで彼らの手腕は大いに発揮されました。

が、仙台藩はもともと気仙沼、石巻、塩釜などの良港に恵まれており、操船や塩田管理に通じたものは他にも大勢いたはずです。

ナゼ紀州から彼らを連れてくる必要があったのか。

政宗公がよほどその腕前に惚れ込んだからだ、とか「まぁ、あの政宗さんですから……」(?)と様々な説が唱えられていて、その中の一説にこんなものがあります。

「水主衆は、江戸を攻めるための水軍として雇われたのだ」

地理的に江戸まで一直線の奥州では、それまで戦に水軍を利用したことがありません。

海と言ったら「魚!」一択のお国柄でした。

しかし、瑞巌寺の造営が始まる1605年頃と言えば、そろそろ各藩の状況も落ち着いてきて金銭的にも多少の余裕が出てくる時代です。

その余裕をガリガリ削るために天下普請(江戸城を造らされるなど)などを幕府から命じられる訳ですが、戦が無ければ内政に余力が向けられるのは当然。

大藩であれば治水や灌漑事業に大金を投入して、あっと言う間に荒地や河川などを開拓することができてしまいます。

仙台藩の石高が事実上100万を超えるのは五代藩主の吉村公以降のこと時代以降ですが、治水、灌漑の成功あって資金に余裕のできた政宗公が「次は何をしようかな~」と思って考え出したのが水軍の編成でした。

と言っても幕府が成立してまだ数年です。こんな時期に水軍を作っちゃったら、当然、幕府から警戒されます。

それを避け自然な感じで水練に通じた者を雇うには?

そうだ、瑞厳寺の資材運搬係として連れて来ちゃえばいいじゃない――という事で選ばれたのが、紀州の海沿いにお住まいだった水主衆の方々、そんな見立てです。

 


鈴木、鈴木、鈴木…あーーーーーっ!

さて、松島と言えば、やっぱりあの景勝ですよね。

上杉景勝(かげかつ)ではなく景勝(けいしょう)です。

瑞厳寺などの桃山様式の建築物と共に、湾内で大小260もの小島が作り出す美観は観光の大きな目玉。

中には人が住んでいる島もあるのをご存知でしょうか?

しかも、その住民の多数が「鈴木」姓なのだそうです。

水主、紀州、鈴木姓――。

これでピンときたあなたは、中々の歴史通でしょう。

そうです雑賀衆です。

戦国時代の紀州と言えば、戦国、いや世界最強の鉄砲集団。

雑賀孫一率いる「雑賀衆」が有名で、実は本来の姓は鈴でした。

そして松島湾の島々に住む鈴木さんは、この鈴木孫一の末裔だというのです。

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