関東の北条氏――戦国期の後北条氏と言えば「北条氏康」が代表的人物として挙げられるでしょう。
といった華やかな戦国武将と幾度も名勝負を繰り広げ、ついに小田原を守りきり、関東を制覇したとして知られるからです。しかし……。
その栄誉は父の北条氏綱にもっと与えられるべきではないでしょうか。
父・早雲と、息子・氏康に挟まれ、地味で目立たぬ存在なれど、実は小田原へ拠点を移し、そして「北条氏」の名を関東に轟かせたのも氏綱の手腕あってこそ。
本稿では、あまり語られることのない北条氏綱の関東覇権を振り返ってみたいと思います。
お好きな項目に飛べる目次
北条氏綱……偉大なる宗瑞の子として生まれる
北条氏綱は、長享元年(1487年)に誕生。
父は「北条五代」の始祖であり、一世一代の下剋上を成し遂げたとして知られる北条早雲(伊勢宗瑞)です。
母は宗瑞の正室である小笠原政清の娘で、嫡男だった氏綱は、おおよそ文亀年間(1501~1504年)に元服を済ませていたと目されます。
彼の名乗った仮名は、父と同様に「新九郎」でした。
この名は、以後、北条家を継ぐ歴代当主たちに受け継がれていく伝統的なものになっています。
北条氏綱が史料に登場するのは意外と遅く、永正9年(1512年)に家臣の伊東氏に対し
「此度の戦は見事だった」
と戦功を褒めた感状に名前が登場しました。
この時点では父と連署しているため、まだ家督の継承は行われていませんが、すでに後継者として家中で重要な役割を担っていたことが理解できます。
もっとも、この年すでに57歳に差し掛かっていた父の早雲はまだまだ現役であり、彼が相模国の侵攻を本格化させたことで、ようやく氏綱の名前が登場してきたという流れです。
北条氏綱の名がなかなか史料に見えないのも、おそらくこのタフネス親父がいつまでも第一線で働いていたためでしょう。
さすが室町幕府の幕臣から大名への道筋を作った御方であります。
-
北条早雲(伊勢宗瑞)は幕府のエリート出身!? 元祖・下剋上大名の生涯64年
続きを見る
政治的判断で早雲は隠居へ
60歳を超えても現役バリバリで活動していた宗瑞。
やがて政情の変化により一線を退く時期がやってきました。
この引退は、扇谷上杉と小弓公方足利氏の微妙な関係が影響していると思われます。
早雲は、長年にわたって扇谷上杉氏と抗争しており、一方の小弓公方足利氏とは、協力関係にあると見なされておりました。
しかし、この扇谷上杉と小弓公方が協力関係になってしまい、その狭間に置かれた早雲が居心地の悪い存在となってしまったのです。
あるいは空気を読んで配慮したとも言えるでしょう。早雲はやむなく「隠居」を決断し、相模方面の攻略で成果を上げていた北条氏綱が二代当主の座についたのです。
関東の政治事情によってようやく家督を継承した氏綱。
上記の指摘が事実であれば宗瑞はまだまだ活躍する心づもりであったのかもしれません…。
いずれにせよ家督を継承した北条氏綱は、精力的に動いていきます。
まず「代替わりの改革」として、印判(はんこ)や本拠地の移動などを実施。
北条氏を象徴する
【虎の印判】
が出現しました。
四角形の中に
【禄寿応穏(ろくじゅおうおん・財産と命がまさに穏やかでありますように)】
という文を刻んだもので、その上部に虎が描かれたデザインです。
小田原移転で関東進出の基盤を固める
「虎の印判」は、北条氏が勢力を拡大していくにつれて「北条権力の象徴」と考えられるようになっていきました。
実に彼らが滅亡するまで使い続けられることになるのですが、単に精神的シンボルという存在だけでなく、政治的実行力も伴っていたのです……とは、どういうことか?
当時、関東では、終わりなき戦乱に伴って人心は荒れ、【郡代・代官】らが勝手に多くの税を徴収するということも頻発しておりました。
そこで、これを取り締まるため、
「虎印のない文書には一切応じる必要がない!」
と明言する役割を担ったのです。

虎の印判/横須賀市HPより引用
結果的に、この虎印は、家臣らの権利を制限することにもつながり、北条氏の統治機構強化へ繋がっていきます。
例えば代替わり後の北条氏綱は、宗瑞の意思を継いだ積極的軍事行動に出ており、前述の小弓公方足利氏を支援するため上総(千葉県)に渡海。
神奈川県から千葉県というと、陸路で結構な距離がある印象ですが、船であればかなり近いものです。
氏綱のこの行軍は、今後も「宗瑞と変わらないスタンスで活動していくぞ!」ということを対外的に示したと考えられます。
ただし彼は、対外進出で戦争を重ねるよりも、領国支配体制の強化を目指し、国力増強に努めていたフシが垣間見えます。
その最たる例が本拠地の小田原移転でしょう。
早雲の代では伊豆の韮山城を本拠としておりましたが、北条氏綱は小田原城に定め、関東制圧の拠点にしたのです。
これに伴い代替わり検地を行い、小田原周辺や鎌倉寺社領の税負担を明確に定め、支配者としての地位を確立していくのでした。
※続きは【次のページへ】をclick!