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最上家臣の北楯利長が庄内平野を大工事!水馬鹿の意地とは【東北戦国譚】

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執念の水源探し

利長は何かに取り憑かれたように、熱心に水源を探し始めました。

人に出会えば「どこかに水源はないか?」と尋ねる利長。

あまりのしつこさに呆れた住民たちが、利長のことを陰で「水馬鹿」と呼び始めたほどです。

しかし、調査すること数年。

熱意と調査の結果、利長はついに月山から流れ出る立矢沢川に目を付けます。

「この流れを変えて堰を作ればよいのだ!」

利長は思いつきました。

もちろん簡単な工事ではありません。利長とその家臣だけでは到底できない大規模な藩営事業になる見込みでした。

そこで利長は大工から技術を学び、完璧な工事請願書を作成。

慶長16年(1611)夏、主君の義光に提出することにしたのです。

義光はその計画書を見て驚き、利長の熱意を感じました。

しかしこの規模となると、藩主の一存で決定できることではありません。重臣たちを呼び集めて評定を開きました。

 

大工頭も派遣して現地を視察

長谷堂城の戦いの活躍で名高い志村光安、義光の三男の清水義親らは計画に断固反対しました。

庄内各地から人も金も集めなければなりませんから、なかなか大変なわけでして、仕方のない部分もあったのでしょう。

一方、庄内で治水に取り組んできた新関久正は利長の計画を強く推進します。

議論は決着がつきそうにありません。

義光は一旦議論を終わらせ、利長を呼び出し、直接意見を聞いてみることにしました。

そこで利長は熱心にプレゼンテーションを行ったのです。義光はその熱意だけではなく、計画そのものの完成度の高さに感心しました。

そこで義光は、さらにプロの意見を聞くことにしました。

大工頭の若狭を派遣し、現地を視察させたのです。

若狭は利長の立ち会いのもと十日ほど測量を行い、計画が妥当であると診断しました。

慎重な義光も納得し、ついに翌年春より着工するという決断を下します。

工事の責任者はもちろん、利長。

慶長17年(1612)春、雪解けを待ってついに工事が始まりました。

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