こちらは3ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【三方ヶ原の戦い】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
説②祝田坂なら勝てると思い
『三方原戦記』には以下のようにあります。
「此時、家康公、鳥居四郎右衛門忠広を召され、物見の様子を仰せ付けらる。おっ付け、鳥居、立ち帰り、申し上げ奉るは、『人々、勇みかからんと申せ共、此度の御合戦は、御無用に遊ばさるべし。只今、信玄、大軍を一手に構え、山の際に伺い居て、勢い、猛虎の旗色なり。此軍、勝ち難し。早々、先手へ使者を遣わされ、軍勢を引き上げさせ給ふべし。若し又、戦わんと覚え召されんば、敵軍、祝田坂を登り候はん頃、上へ打ち崩し、無二無三に掛け立てなば、御合戦、勝利たるべし』と申し上げければ、家康公、聞き召し、殊の外、御機嫌悪しく御座有りて、御座をぞたたせ給ふ。」(『三方原戦記』※3)
11,000対30,000では、策無くして戦えば負けます。
徳川家康は、物見(鳥居忠広)の「此度の御合戦は、御無用に遊ばさるべし」(今回は戦わない方が良い)という報告を聞き、気分を悪くして座を外したにもかかわらず、「武田軍が祝田坂を下っている時に襲えば勝てる」と考えたようです。
坂の途中や下にいる兵はUターンして坂を上るのは不可能ですから、まずは、少数の坂の上の兵だけでも倒せば良い――つまり「戦った」という実績を作れば良いとの判断。
しかし、実際に祝田坂へ行ってみると、武田全軍が坂の上(三方原)に陣形を構えていたというものです。恐ろしいですね。
説③見放されるのが怖かった
怒りに任せての出陣か。
勝算ありと思っての出陣か。
それとも「不甲斐ないと思われる事に対する恐怖心」からの出陣なのか?
「敵、我城辺を推て通るに、城内に居なから、出て一当、当てさらんは、甲斐なく聞ゆる」(『浜松御在城記』)
織田信長は、3000人の援軍を送りました。
この援軍を率いる将は徳川家康の監視役だったともいいます。
信玄相手に何をするのか?
家康の行動は、怖い怖い織田信長に見張られていたというのですね。
武田信玄の西上作戦の目的は、そもそも上洛ではなく織田信長を討つことと考えられたようです。
そのため家康に「壁になれ」と織田家から援軍を送られたのに、何もしなかったら後が超怖い。
また、武田信玄と内通していないことをアピールするために出陣したとも囁かれております。
更には、もし何もしなかったら「不甲斐ない!!」と家臣団(=特に遠江国の国衆)が武田方に寝返ることを恐れていたとか、あるいは浜松城に避難していた領民が「領主様は、私達のために何をしてくれるのだろう?」という目で天守を見上げており、その目が怖かったとも考えられるというものです。
説④石合戦からなし崩し的に始まった
上掲の『記念誌』では「石合戦から始まり、初めは互角の戦いであったが、やがて徳川勢が総崩れとなり、敗走した」とあります。
どういうことか?
騎馬武者が5騎、10騎と次々と浜松城を出て物見(斥候・偵察)、あるいは見物(野次馬)に行くと、小山田信茂の投石隊と礫の投げ合いとなり、小競り合いが始まってしまい、浜松城へ兵を戻すために家康が出陣したところで戦闘に巻き込まれてしまったというものです。
「浜松衆、為物見。十騎、二十騎づつ懸来取合之間、是を可引取之由曰家康公出馬之處、不慮に及合戦。」(『當代記』)
「翌日は極月二十二日なり。信玄既に軍を戻さん為めに、浜松の北・大菩薩を押通り、刑部へ赴かんとて、四郎勝頼、山県昌景を後軍として、士卒を繰出す。浜松勢、此由を聞きて、敵、引取るを見物せんとて、或は五騎、十騎と馳せ出で、或は二十騎、三十騎宛、思ひ思ひに抜け出でて、雑卒に礫を打たせけるが、程なく千人に及びければ、神君も止むことを得給はず、浜松を御出馬あり。」(『四戦紀聞』)
「二十二日、信玄、兵を率て井ノ谷に引入らんとす。勝頼及び馬場、山県、殿後たり。浜松の壮士、五騎、十騎馳出て、此を見る。吾兵、初め、礫を打懸たり。敵も亦、交礫を飛せたり。」(『武徳大成記』)
現在は、この鈴木説が「三方ヶ原の戦い」の発端(真相)だと考えられています。
学者さんはA説とB説のどちらが正しいかと論戦しますが、私はAもBも正しいと思います。
小さな判断ミスでも生死に直結する戦国時代では、Aだけを理由に動くことはなく、AでもBでもある(そうするのが最善だという理由が複数ある)から人は動くものではないでしょうか。
もちろん、自説だけを肯定し、他説を否定する学者さんばかりではありません。
たとえば高柳氏は「どうも家康は心ならずも戦闘に巻き込まれた、という感がしないでもない」(『三方原之戦』p125)と鈴木説を示唆しているのです。
本編ここまで。
次ページにて、オマケ&参考へと続きます。
※続きは【次のページへ】をclick!