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【豊臣国松】
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幕府公認の縁切寺として存続
というわけで秀吉・秀頼の血筋は絶えることになるのですが、この時点ではまだ他にその血を引く人が生きておりました。
一人は後に“天秀尼”(てんしゅうに)と呼ばれる女性です。
秀頼の正室&千姫(徳川秀忠の娘)が「せめて女の子だけは助けてください!」と懸命に嘆願したため、「尼寺に入れるならよかろ」ということで命を助けられました。
このとき入ったお寺が東慶寺(とうけいじ)。
鎌倉幕府の一番有名な執権・北条時宗の正室だった女性が創建したといわれているところです。
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今は男性のお坊さんが日々お勤めをされているそうですが、明治時代までは女人禁制ならぬ男子禁制の尼寺でした。
いつの頃からの方針なのかはハッキリとは不明ながら、夫に暴力をふるわれた妻など、苦境にある女性の「駆け込み寺」として機能しており、天秀尼もその方針を引き継いでいったそうです。
また、家康の孫・千姫が後ろ盾になってくれたことで、天秀尼だけでなく東慶寺の立場も保たれ、江戸時代を通して幕府公認の「縁切寺」として離婚などを受け持つ家庭裁判所としての役割を果たしていました。
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あの淀殿に育てられた秀頼の娘が、家庭裁判所の所長みたいなことをしてたのかと考えるとなかなかスゴイ話です。
実はいた!? もう一人の男子?
国松と天秀尼の二人はほぼ間違いなく秀頼の子供ですが、もう一人兄弟がいたともいわれています。
これまた求厭(きゅうえんorぐえん)というお坊さんで、臨終間際に
「実は私は秀頼の次男だったのだよ!」
「ナ、ナンダッテー!!」
と話していたらしいことが記録されているのです。
大坂夏の陣の直後、細川忠興が国元へ書いた手紙の中にこんな記録も残されておりました。
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【忠興の手紙】
「秀頼には実は息子が二人いて、家康が血眼になって探してるよ。お前らそれっぽいの見つけたら知らせるようにな」(意訳)
求厭がその一人だとすればつじつまは合います。
とはいえ、本人が素性を明らかにすることを避けていたということは、当然、他の人が残した記録もないわけで、真偽は不明なんですけどね。
しかも求厭が仏門に入ったのは、徳川家の菩提寺である増上寺だというのですからこれまた「???」です。
いわく「徳川のお膝元である寺で修行をし、恨みの気持ちを昇華させたかった。死ぬ間際になってようやくそういう気分になれて良かった」らしいのです。
家康や秀忠が、自分の家の菩提寺=自分も埋葬されるか位牌を置かれるであろう寺の僧侶について、まったく素性を知らないなんてことがありえるんでしょうかね?
求厭が隠したとかごまかしたのかな。
それにしたって国松の弟ということは当時5歳くらいなわけで、家臣が隠して連れてきたにしてもちょっと無理があるような……。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
滝沢弘康『秀吉家臣団の内幕 天下人をめぐる群像劇 (SB新書)』(→amazon)
笠谷和比古 『関ヶ原合戦と大坂の陣 (戦争の日本史 17)』(→amazon)
豊臣国松/Wikipedia