権力者の家族はギャップが激しいもので、慶長二十年(1615年)5月23日に処刑された豊臣国松もその一人でしょう。
姓は聞き覚えっても名が不明で「いったい誰?」という声が聞こえてきそうですが、記事タイトルにまんま答えはありますよね。
父親が大坂城と共に自害したことから、国松の将来にも影がさしそうですが、一体どうなるのか……その生涯を振り返ってみましょう。
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秀吉の孫ってことで天国と地獄…
豊臣国松は、前述の通り、豊臣秀頼の息子です。
母は側室(成田助直の娘など諸説あり)。
となれば「秀頼が秀吉の実子なのかどうか?」はさておき、豊臣秀吉の孫となりますね。
さらに秀頼といえば母の淀殿とワンセット。

淀殿(左)と実子の豊臣秀頼/wikipediaより引用
母子のインパクトが強すぎるせいで、いつまでもお坊ちゃんだったかのようなイメージも漂いますが、彼にもちゃんと子供がおりました。
問題は、その秀頼が大坂夏の陣で敗北してしまったことです。
徳川に完敗した豊臣。
もし、その遺児である男子を生かしておくと、いつどこで誰かが「豊臣再興!」などと担ぎ上げないとも限りません。
ゆえに禍根を断ち切るため、大坂城の陥落後に徳川家康が処刑した――そんな単純かつ後味の悪い話でもあります。
当時、秀頼は20歳そこそこでしたので、国松が処刑されたときはなんと8歳(数え年)。
現代でいえば小学2年生になったばかりです。

絵・小久ヒロ
まぁ、武家の慣例を考えたら仕方ない話なんですけどね。
しかし、京都市中を引き回した上での斬首というのはさすがに酷すぎるとは思ってしまいます……。
故事にならえば助命は不可能
「引き回し」とは刑罰の一つです。
縛られた状態で馬に乗せられ、罪状や名前を書いた札をつけられて街中を巡らされました。
当時は現代よりもっと“恥”に対して敏感な時代ですから、これはトンデモなく屈辱的なことです。
身分が高ければなおのこと。
今の感覚でムリヤリ置き換えるとすれば、選挙カーのてっぺんに乗せられ「コイツ◯◯って言うんですけど、こんなことやったんですよー恥ずかしいですねー!」とスピーカーで言われ続けながら町内一周+全国ネットで生中継されるような感じでしょうか。
しかもそれに耐えたところで、待っているのは死刑です。
当然、家康の頭の中には源頼朝の故事もあったでしょう。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用
頼朝が平清盛に処刑されかけたところ、清盛の義母などが口添えしたおかげで命を助けられ、成長後に平家を討ち倒す――というお話です。
要は「まだ幼いから」といって情けをかけると、やっと手に入れた天下人の座が一瞬で奪われてしまうかもしれません。
だからこそ、市民に「コイツが秀頼の息子だから!今日殺したから!もう秀吉の血筋なんかいねーから!!」(超訳)とアピールする必要があったのですね。
それでも生存説があったりするんですが、秀頼同様に「薩摩に落ち延びた」というあたりがまたベタな話ですので、事実がどうこうというより、民衆の願望が説話になったというのが真相でしょう。
ただし、生き残った子もいます。それが……。
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