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久坂玄瑞/wikipediaより引用

西郷どん特集 幕末・維新

久坂玄瑞25年の生涯をスッキリ解説!吉田松陰の遺志と共に爆走した儚い軌跡

投稿日:

2018年大河ドラマ『西郷どん』は、とにかくモテた西郷隆盛がコンセプト。

確かに西郷は、
「黒いダイヤモンドのような目に、吸い込まれそう」アーネスト・サトウ
とか
「役者のような、よか二才(にせ・若者)じゃった」※妻・西郷糸子
といった声があります。

しかし、その一方で……
「あの安禄山め!」島津久光談…中国唐代の奸臣かつ巨漢で有名
といった表現もありまして。

誰からもモテたというよりも、ファンもアンチも多い、といったところでしょうか。

むしろ、誰からもモテたイケメンであれば、長州藩の俊才・久坂玄瑞が該当するかもしれません。

特に幕末京都での人気は凄まじいものでした。

「あなたにとって一番のイケメンは誰ですか?」
とインタビューしたら、
「長州のお侍さんはええね。金離れもええ」
「長州いうたらやっぱり久坂さんやわぁ。イケメンやし、イケボやし、スタイルええし」
「久坂さんがあの声で詩を吟じているの聞いたけど、ほんまええ声で……」
みたいになるんじゃないかと思います。

肖像画は実子・秀次郎をもとに描かれたもので、当時の本人はレジェンド級のイケメンであり、しかも長身でインテリ。

本稿では屈指のモテ男だった久坂玄瑞の生き様、軌跡に注目してみたいと思います。

 

萩城下一のイケメンは、吉田松陰妹・文のハートを掴む

身長は180センチを超え、誰もが聞き惚れるような美声の持ち主。
しかも色白のイケメン。

萩城下で誰もがウットリしたであろう久坂玄瑞に恋をしたのは、あの吉田松陰の三番目の妹である文(美和子)でした。
2015年大河ドラマ『花燃ゆ』のヒロインとしてもおなじみですね。

久坂18才、文15才の時、二人は結婚。
これがなかなか大変なエピソードがありまして。

仲人の中谷正亮と久坂とは、こんなやりとりがありました。
「松陰先生の妹・文さんと、結婚しんさい」
「あねえなブスはわしの好みじゃない」
「は? お前は結婚相手をルックスで選ぶそ? つまらん男じゃのぉ」
女としては屈辱的な逸話であるにも関わらず、文は夫を心の底から愛しておりました。

そんな久坂の生誕は天保11年(1840年)。
1827年生まれの西郷と比べると13才下になります。

吉田松陰/wikipediaより引用

 

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幸福な幼年時代と、その哀しい終焉

久坂の生まれは長門国・萩です。

父は藩医の久坂良迪(りょうてき)
母は庄屋の娘であった富子。
久坂家は寺社組、禄は25石です。決して高い家格ではありません。

久坂の幼年時代は、なかなか穏やかで楽しいものであったようです。
凧揚げや竹馬で遊び、梨や棗(なつめ)の実を食べる、そんな幼年時代でした。

二人の兄がおりましたが、次兄は早世しております。
長兄・玄機(げんき)は、20才も年長で、緒方洪庵の元で学び、長崎へも留学。
西洋医術も修めつつ、早くから種痘の有効性に目をつけ導入するという、見識の優れた人物でした。

玄機は、尊皇攘夷の僧侶として知られる妙円寺住職・月性とも交流がありました。

そんな人物ですと、勝海舟福沢諭吉五代友厚のような、開明的な蘭学好きかと思われそうです。
が、玄機の場合は違いました。
彼はむしろ攘夷論に傾いていたのです。こうした兄の言動は、弟にも大きな影響を与えました。

貧しいけれど、幸せな幼年時代。
志と知識にあふれた、敬愛できる兄。

久坂は、美声と美貌、そして才知に恵まれた少年に成長してゆきます。
萩城下の人々は、才気溢れる美少年・久坂のことを行く末楽しみな若者として、見守っていたのです。

しかし、そんな幸福な少年時代は、突如、終わりを迎えるのでした。

 

戻らぬ幸福の日々、のしかかる責任

嘉永6年(1853年)、マシュー・ペリーの黒船が来航します。
そしてその翌年、安政元年(1854年)には日米和親条約が締結。

 

そんな激動の幕末が始まったころ、久坂の身に大きな不幸が襲いかかりました。

母・富子が死去したのですが、それだけではありません。

このころ兄の玄機は、黒船来航後の政策について、藩から意見を求められていました。
日夜そのことを考え、過労気味となり、玄機も急死してしまいまったのです。享年35の若さでした。

さらには父・良迪(りょうてき)までもが、二男・玄瑞を跡継ぎとして藩に申請しようとしていた最中に急死してしまうのです。
妻子を失い、極度のストレスにさらされていたことが引き金かもしれません。

かくして、わずか一年ほどの間に、まだ15才の久坂は一家全員を失ってしまいました。

久坂は家を継ぐため、秀三郎から玄瑞と改名し、剃髪しました。
まだ中学生くらいの少年が、一家を全員失い、家を継がねばならない――想像するだけでも、厳しく哀しい状況です。

天涯孤独の久坂の面倒をみてくれたのは、兄の友人たちでした。
久坂は哀しみを紛らわせるように、一身に学問に打ち込みます。

 

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吉田松陰と熱血トークバトルから入塾へ

父と兄の三回忌のあと、17才の久坂は九州を遊歴します。

このとき宮部鼎蔵とも交流。
話題はもっぱら外交でした。
ともに横暴なアメリカに立ち向かおうと、盛り上がります。

帰国後の久坂は、吉田松陰という人物に手紙を書いてみることにしました。

松陰は、宮部鼎蔵とともに東北視察旅行をしたことがありまして。ペリー相手に「黒船に乗せて欲しい」と頼みこんだこともある異色の人物です。
実際、このときの行動のせいで逮捕&入牢処分を受けていた松陰。
当時は自宅謹慎中の身でした。

見識豊かで、行動力もある。
そんな松陰は、攘夷の志を抱く萩の人々の間で、話題の人物でした。

「そねえに凄い男ならば、実力を試してみたいもんじゃ」
久坂はそう考え、松陰に手紙を書きました。

内容は、黒船来航以来の世相を嘆き、絶対に攘夷をしちゃるんだ、と語る――そんな熱血青春トークです。

これに対して、松陰は無慈悲なまでに、久坂をコテンパンにしてしまいます。

「きみの意見は軽薄で、浅い。心の底から言うちょらん。ただ世相に対して怒って、注目を集めたい、チャラい人なら誰でも思いつきそうなもんじゃよ。わしゃこねえな奴が一番嫌い。ともかく嫌いじゃ。大嫌いじゃ。もっと自分の立場から、誠実に、利害や打算を無視して考えんさい」

早熟な秀才として知られた久坂は、カチンと来ます。何様だ!というわけです。
一方の松陰は、久坂をボコボコにけなしながら、ピンと来るものを感じていました。

これはいい、才能がある若者であると。

もし、ここで逃げたら、所詮その程度の男。逆に、激怒して食いついてきたら、これは素質があると考えたわけです。
松陰なりの試験ですね。

松下村塾

二人は、手紙を通して激しい論戦を繰り広げます。

久坂は知識でマウントを取ろうとしました。
ソースはこれだけある、俺はこんなにも知識があって、時勢を見て危機感を抱いているのだと。

しかし、松陰はそうではないのです。

「自分の立場から、地に足をつけて、物事を考える。きみにゃあそれができちょるのか。わしゃかつて、アメリカの使節を斬ろうとした。だが、そねえなんをしても百害あって一利なしであると、考えを改めたんじゃ。きみも想像してみんさい。アメリカの使節を斬ることを考えてみんさい。きみならば、どうする?」

そこまで言われて、久坂はハッとなりました。
確かに自分は、当事者だったらどうするかという想定が本気でできていない――。

久坂はこの人にはかなわんと感じ入り、そして松下村塾に入門……したわけですが、実はそこまで熱心には通えなかったようです。

あくまで本業は医者であり「好生館」での医学勉強がメインです。
その合間に通っていたのでした。

 

松下村塾の龍虎 高杉晋作とライバルだった

10才も歳下ながら、才知溢れる久坂にすっかり惚れ込んでしまった吉田松陰。
そんな最中の安政4年(1857年)、久坂より1才年上の青年が松下村塾に入門してきました。

高杉晋作です。
彼の家は久坂とは異なり、家禄200石、代々藩主側近を輩出してきたエリート一家でした。

お坊ちゃまの出自であるせいか、高杉家からは、
「あねえなようわからん連中と関わってはいけん」
と、松下村塾通いをあまりよく思われていなかったようです。
そのため高杉は、同塾へこっそり通っておりました。

高杉晋作/wikipediaより引用

身分を問わない隊員で構成された「奇兵隊」を組織した高杉は、ともすれば上下関係にこだわらない性格と思われがちです。

が、実際はそうではありません。
生涯、上級武士というプライドを持ち続けておりまして。

そんな高杉の問題点を、松陰は見抜きます。
学問や知識が不足しているにもかかわらず、態度が大きく、自己解釈をしてしまうのです。要は、お坊ちゃまなんですね。

そこで松陰は、高杉の前で久坂を褒める――そういう作戦を採りました。

久坂と高杉は幼少期に、同じ吉松淳三・主催の寺子屋に通っていたことがあります。
そのころから互いに意識はしていましたし、家格の点でいえば久坂ははるかに下です。

「なんでこねえな奴に、わしが負けるんじゃ!」
ライバル心をメラメラと燃やした高杉は、猛勉強に励みます。久坂も負けじと、努力するわけです。

二人のライバル心を燃やした結果、両者ともに力をつけました。
やがて二人は、塾生の中でも【龍虎】と呼ばれる双璧になったのです。

まるで名選手を数多く輩出する高校野球の監督のような、そんな松蔭の教育センスを感じますね。

龍虎二人の性格は対照的でした。

苦労人で人格者、優等生気質の久坂。
やたらときかん気が強く、プライドが高いエリートで、暴れん坊の高杉。

そんなライバル同士が、後の長州藩を引っ張っていくようになるから興味深いものです。

 

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松陰の義弟となる

若くして家を継ぎ、苦労していた久坂。そんな久坂に、松陰は同情心があったのでしょう。

「妹の文を、久坂に嫁がせよう」
そう考えました。

かつて僧・月性は、
「妹さんは、桂小五郎に嫁がせたらよいのでは?」
と提案していました。
しかし松陰は、あえて久坂を選びます。

文が久坂に恋していたということもあるかもしれませんが、天涯孤独である久坂を気遣ったことと、その才知を見込んでいたからこそでしょう。

前述の通り、久坂はこの縁談を持ちかけられて、
「あねえなブスはわしの好みじゃない」
と言ったとはされていますが、めでたく二人は結婚します。安政4年(1857年)のことでした。

文は後に楫取美和子となる(前列右端の女性)/wikipediaより引用

新婚夫妻の生活は、杉家(松陰の実家)で始まりました。
『サザエさん』のマスオさん状態ですね。

ただ、新婚生活を楽しむことすらできないほど、情勢は激しく転変しておりました。
久坂は、結婚から僅か2ヶ月後には、江戸へ遊学するため、家を出るのです。

 

江戸、そして動乱の京都へ

江戸に出た久坂は、貪欲に知識を吸収、京都にも赴きました。

当時の江戸と京都は、動乱の渦中にありました。
日米和親条約に対する勅許をめぐり、揺れに揺れていたのです。

そんな京都で久坂は、小浜藩の梅田雲浜とも知り合っています。
久坂や小浜のような尊王攘夷派の者たちは、孝明天皇以下朝廷が、条約に対して断固たる拒否の姿勢を取ったことを、喜ばしく感じていました。

しかし、こうした勅許を得るためのゴタゴタが、どういう結果をもたらすのか。
久坂は理解していなかったことでしょう。

幕府の大老には、井伊直弼が就任しました。
そして、この困難な難局を乗りきるため、井伊は剛腕を発揮します。

井伊直弼/wikipediaより引用

幕府が必死に勅許工作をしていた、その間隙をぬって、水戸藩に「戊午の密勅」をくだされたことに激怒。
その内容は、倒幕をそそのかすものでもあり、とても見過ごせませんでした。

同時に井伊は、「戊午の密勅」の背後に、一橋慶喜を次期将軍に推していた「一橋派」の暗躍がある、と睨んでいました。

実際、一橋派の首魁である水戸・徳川斉昭の関与は間違いありません。

にわかにキナ臭くなっていた状況を危険視した長州藩は、京都にいる久坂ら藩士に帰国を命じます。

久坂は藩邸を出て、梅田のところで潜伏した後、藩の許可を得て江戸に向かい、村田蔵六(のちの大村益次郎)のもとで学問を修めることにしたのでした。

 

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政治に絶望する松陰

こうした政治の動きに、松陰は絶望していました。
彼は開国に反対し、一橋派こそ正義であると考えていたのです。

しかし、井伊は条約締結を断行し、一橋派の望みである慶喜を次期将軍とする企みも挫いてしまいました。

思い詰めた松陰は、だんだんと過激な言動を行うようになります。
「こうなったら、老中・間部詮勝を暗殺するしかない!」

晩年の間部詮勝/wikipediaより引用

「井伊の赤鬼」に対して、「青鬼」と呼ばれてい間部。
幕府の中枢を狙うという松陰の計画を察知した藩は困り果て、自宅軟禁の末に投獄します。

江戸にいる久坂にも、この危険な計画を促す書状が届きます。

松陰の意を知った久坂や高杉らも、
「さすがに、この計画は無理じゃ。落ち着いて考え直そう」
と、翻意を促しますが、松陰はかえって激怒し、絶交すら言い出します。

ますます情勢がおかしくなる中、長州藩は幕府に忖度して、久坂の江戸遊学を打ち切らせました。
3年の予定が1年になり、久坂はさぞや落胆したことでしょう。

 

松陰、無念の最期

帰国した久坂は、獄中の松陰を訪れ和解しました。
その直後、松陰は江戸に送られることとなったのです。

このとき江戸に向かう松陰は、死を覚悟していたかのようにドラマやフィクションでは描写されます。

しかし、実際のところ、この時点ではさしたる嫌疑はかけられておりません。

松陰にかけられた嫌疑は、京都にいた梅田雲浜(うめだ うんぴん)との交際に関してのものと、幕府中傷文書の作成についてでした。
確かに梅田は幕政批判で処罰されますが、松陰については大した容疑ではなく、幕府側も彼をそこまで重視してはおりません。

幕府にとってのメインターゲットは、あくまで「戊午の密勅」背後にいた水戸藩関係者や、橋本左内など、一橋派の中で大きな役割を果たした者たちでした。

安政の大獄で処刑された梅田雲浜/Wikipediaより引用

ところが、です。
訊問の場で松陰は、老中・間部詮勝暗殺計画を自白するのです。

一体なぜそんなコトを口に出したのか?
さすがに意味がわからないという方も多いでしょう。
もしかしたら捨て身の覚悟を見せることで世の中を動かしたいと考えた――そんな至誠の気持ちの発露であったのかもしれません。

驚いたのは、当時の幕府側も同じです。
「たいした容疑ではなかったのに、なんだかすごい者が出てきてしまった」

老中暗殺を計画して、しかもそれを白状して生存できるはずはありません。
かくして、松陰は斬首されてしまいました。
享年30。

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂

死を前にして、松陰は久坂ら弟子たちに、そう辞世を残しています。
が、江戸で処刑に立ち会った長州藩士・井原孫右衛門の評価は、辛辣でした。

「才能があるそにもったいないことだ。周囲がチヤホヤしすぎて勘違いしたのじゃろう。まったく暴発して、危険な若者じゃのぉ」

しかし、この無謀な若者の死は、やがて日本を大きく動かすのです。

 

松陰伝説化の始まり

「わが終わりにわが始めあり」
とは、スコットランド女王メアリー・スチュアートが断頭台で言った最期の言葉とされています。

これは松陰に関してもあてはまるものでして。
首が処刑場に落ちた瞬間から、彼の短い生涯は伝説によって彩られ始めます。

もしも誰かが松陰の生涯を輝かせ、語り継ぎ、言葉を書き残し、伝説としなかったら――小さな家に過ぎない「松下村塾」が世界遺産になることもなかったことでしょう。
同世代で、同じく「安政の大獄」に散った橋本左内と松陰は、およそ150年後の現在では知名度にかなりの差があります。

福井藩の天才で西郷隆盛にも強く影響を与えた橋本左内/(島田墨仙作)福井市立郷土歴史博物館蔵wikipediaより引用

その松陰伝説化のプロデューサーが、他ならぬ久坂でした。

松陰と久坂は純粋な人とされています。
確かに松陰は純粋で、誠意とともに生きた人物でした。

しかし、久坂はそう単純ではありません。
必要となれば策を用いることもあり、人心掌握に関しては天才的なものがありました。
彼はその知略を、師であり義兄である松陰の顕彰のために使うこととしたのです。

久坂の松陰プロデュースの内容は、以下の通りです。

・遺書『留魂録』の編纂
・伝記編纂の開始(未完)
・松下村塾のテキストに松陰の著作を採用する
・墓碑建立
・松陰の遺品(遺墨)を同志に配布する
・松陰の改葬
・松陰の霊を祭る
・他藩士にも松陰の偉大さを宣伝する

こうした久坂のプロデュース力は、おそらくや現在でも十分に通じる取り組みでしょう。
松陰は久坂の手によって、【誠実だけど無謀な若者】から、【誠意あふれる崇高な殉教者】と变化したのです。

吉田松陰/wikipediaより引用

久坂のこうした行為は、孤独な身の上である自分を受け入れてくれた義兄への、思慕や敬愛の念が根底にあるのでしょう。
しかし、ただそれだけではなく、己の主張の正統性を高めるという目的もなかったとは言えない。
そんな気がしてなりません。

 

東奔西走の日々

松陰の死後も、久坂は、杉家の援助を受けました。
杉家は文が誕生した頃から生活が上向いており、金銭面では余裕があったのです。

その潤沢な資金で、彼は尊皇攘夷活動に東奔西走するのでした。

弁舌さわやかなイケメンである久坂は、説得力抜群。
女性と遊ぶようなことがなかった師の松陰とは異なり、プレイボーイとしてもならしました。

彼のみならず、長州藩士たちは気前がよく、粋な遊び方で、京都人のハートをがっちりつかみます(※ちなみに、最もモテないワースト1は、貧乏で不器用で無粋な会津藩士でした)。
のちに長州藩士が窮地に陥ったときも、京都の市民たちはエールを送り続けたほどです。

久坂が美声で漢詩を吟じながら歩くと、京都色街の女性たちは熱狂しました。
「キャーッ、久坂はんやわあ!」
「ほんまにええ男~!」
「こっちを向いておくれやす~~~!!」
モテ男伝説ですね。
幕末京都モテ男ナンバーワンは、やはり彼ではないでしょうか。
妻である文にとっては、複雑な気持ちであったことでしょうが……。

久坂が交流したのは、むろん、色街の女だけはありません。

坂本竜馬
・吉田寅太郎
・武市瑞山
かような幕末著名人とも接触。
単に交流するわけではなく、松陰の偉大さを説くことも欠かしませんでした。

かくして吉田松陰の名は、久坂によって他藩にまで広まっていくのです。

長州は朝廷にとって特別な藩

幕末長州藩について知っておきたいことに、彼らの朝廷に対する距離感があります。

長州藩毛利家は、平城天皇の皇子である阿保皇子(一品)を先祖としており、家紋も縦に「一品」と読めます。

毛利家家紋/photo by 百楽兎 
wikipediaより引用

他のどの大名家よりも自分たちが最も皇室や朝廷に近い――それが彼らのアイデンティティでもあったのです。

「我らこそ、幕府と朝廷の間を取り持つ役目にゃあ最適じゃ」
そう考えた長州藩は、文久元年(1861年)、長井雅楽が献策した「航海遠路策」を提出します。

長井雅楽/wikipediaより引用

内容を要約すると、以下の通りです。

・朝廷は鎖国攘夷政策を改めて、そのことをふまえて幕府に命令を下す
・公武合体、一丸となって富国強兵を促進
・その上で、海外雄飛を目指そう

これを読むと、多くの方は、こう思うのではないでしょうか。

『悪くないじゃん! いいね、現実的だね』

実際この考え方は、長井一人のものではなく、当時合理的な考えを抱いている人ならば、似たような結論に至っておりました。
明治政府にしたって、幕府が消滅した代わりに新政府が行うようになったわけで、ほぼ同じことをしているわけです。

つまりは、正解、正論なのです。
幕府は当然賛成しましたし、孝明天皇も賛意を示しました。

孝明天皇は、妹・和宮の夫となった徳川家茂徳川慶福)が上洛した際、彼のことをえらく気に入りました。
妹のためにも、幕府と手をとって歩んでいこうと思ったとしても、何ら不思議はないわけです。

徳川家茂(徳川慶福)/wikipediaより引用

しかし、久坂ら松陰の門下生にすれば納得できません。

「松陰先生は幕府の開国に反対して、幕府によって殺されてしもうたんじゃ。こねえな策が受け入れられたら、先生の死が無意味になってしまう!」

そんな彼らの反発を買った長井は、文久3年(1863年)、尊王攘夷派から憎まれた挙句の果てに、切腹へと追い込まれてしまうのでした。

 

「奉勅攘夷」

このころ、長州藩にとっては甚だおもしろくないことが起こっていました。

文久2年(1862年)、島津久光が兵を率いて上洛。
西郷隆盛が「無謀」だと反対した計画ですが、幕末でこれほどインパクトを与える行動を与えた例は他にありません。

京都を抑えた久光は、大きな圧迫感と存在感でもって、幕末政治の表舞台に立ちます。
この上洛により、元一橋派の一橋慶喜、松平春嶽も政界に復帰しました。

久光の上洛の直後に「寺田屋事件(寺田屋騒動)」が起こります。
この事件で久光は、
【自分の藩の者であっても、朝廷に背く者は断固処理する】
ことを示したのです。
孝明天皇はじめ朝廷の久光に対する評価は、この果断によって一気に高まりました。

同年、久光の幕政改革案によって設置された京都守護職として、会津藩主・松平容保が上洛。
苦しい状況の中、再三辞退した挙げ句、ついに上洛することになってしまいました。

容保は、政治的には愚直なところがあり、同時に誠意あふれる性格です。
孝明天皇は、生真面目な容保のことを、ことのほか気に入りました。

が、これは、長州藩にとっては大変おもしろくありません。
朝廷にとってナンバーワンは自分たちだったのに、薩摩と会津が割り込んできたように思えたのです。

こうなったら、さらなる過激な攘夷を行って自己アピールするしかない!
かくして藩をあげて、勅命を奉じて攘夷をすること、すなわち「奉勅攘夷」がモットーになりました。

 

暴走する「攘夷」

文久2年(1862年)。
このままでは薩摩や会津に負けてしまうと、長州藩過激派は焦りました。

もう、こうなったら、さらなる攘夷アピールしかないんじゃ!
そんな暴走状態に陥ってしまったのです。

外国公使暗殺(計画のみで未遂)。
イギリス公使館焼き討ち。

徳川家茂が上洛すると、根回ししてしつこく攘夷を誓うように画策します。

下関からは、通りがかる外国船を片っ端から砲撃。
民間商船でも容赦しなかったため、国際法に照らしてもこれは大問題です。

かなりの危険行為で、外国に戦争を仕掛けられてもおかしくはありません。
こうした無謀な「小攘夷」(短絡的なヘイトクライム)は、国家を危険にさらすだけの愚行とも言えます。

案の定、アメリカとフランスから逆襲を受け、長州藩はとんでもない状況に陥ります。

こうした状況を打破するために、高杉晋作が急遽、結成したのが「奇兵隊」でした。

「奇兵隊」は武士以外の起用した隊であることから、高杉や久坂は身分にとらわれない平等の意識があった、とされています。
この点については保留が必要です。
武士以外が隊員とされたのは人員不足によるものでした。高杉にせよ、久坂にせよ、生涯武士としての誇りを持ち続けていました。

当時の武士としては、
「わしら武士が、民を率いてこそじゃ」
という思いがありました。

これは藩を問わず、そんなものでした。
現代的な身分平等思想があったかどうかは、別の話です。

奇兵隊/Wikipediaより引用

さて、この奇兵隊。
外国勢との戦争が終わるとさらに行動を始めます。

関門海峡を越えて、さらなる攘夷のために、小倉藩領にまで砲台を築き始めたのです。

長州藩に巻き込まれた小倉藩とすれば、砲台建設はたまったものではありません。
勝手に砲撃されて外国船に攻撃されたらば、被害を被ってしまいます。

当然ですが、小倉藩は「止めてくれ」と訴えました。

が、長州藩は取り合いません。

「攘夷に協力せにゃあは、不甲斐ない連中じゃ。勅を得て砲台建設の許可を、朝廷から得よう」

かくして、長州藩過激派の意を汲む公卿により、小倉藩に攘夷を命じる勅令が出されてしまうのです。
あまりの暴走に驚いた幕府からの詰問使が、長州藩にやって来ます。

その使者は、斬殺されてしまいました。

 

なぜ「攘夷」にこだわるのか?

ここで、何か気になってきた方がいると思います。

「攘夷でアピールするっていうけど、当時の人は攘夷のデメリットに気づかないの? そんなにノリノリだったの?」

そうではありません。

「攘夷なんて野蛮、最低最悪」と冷静に考えている人もいました。
「攘夷をダシにして自己アピールをしている」と喝破している者もいました。

幕臣の江間政発は「幕末の攘夷とは、反対派を叩き潰すための看板である」と回想。
五代友厚は「攘夷なんてしていたら、清やインドのように国が駄目になる」と指摘しております。

当時、会津藩の家老であった山川浩となると、さらに辛辣極まりありません。

山川浩/Wikipediaより引用

彼の著書『京都守護職始末』から引用してみましょう。

『京都では諸藩脱藩の武士などが)外国人を夷狄禽獣(いてききんじゅう)と呼び、嗷々(ごうごう)として鎖国攘夷を口にするが、さて一つとして確固とした定見があってのことではなく、はなはだしいものは昔の元寇とくらべて神風の霊験を頼むものさえある。』

【意訳】当時の京都では、脱藩浪士が外国人をケダモノ扱いして、やたらとうるさく鎖国攘夷だと叫んでいたけど、そんなものには一つとして確固たる定見なんてない。酷い奴は、元寇の時の神風を期待するオカルトレベルだった。

それが、山川の指摘です。
山川は尊王攘夷派に苦しめられた会津藩士であり、しかも性格的に思った事をズバズバ言うタイプですので、そこは差し引いたほうがよいかもしれませんが。

のちに長州藩の盟友となる薩摩藩は、島津斉彬よりさらに前の、斉興の代で攘夷は無理であると悟っておりました。

外国人殺傷事件「生麦事件」の結果、薩英戦争に突入してしまいますが、そのあとは完全に攘夷からは距離を置き、むしろイギリスと手を組んでいます。
確かに戦争で打撃は受けた。
しかし、貿易のチャンスを得たメリットは大きいもので、WIN-WINの関係を築くわけです。

薩摩藩の考え方は合理的です。

たしかに藩のトップであった島津久光は、異母兄の斉彬とは異なり、西洋の文物を好んでいたわけではなく、明治維新後も亡くなるまで髷を結っていたほどです。
そうした好悪の感情と、藩の利益を切り離すことができました。

攘夷に益がないとなれば切り替え、丁寧にイギリスの使節をもてなしています。
戸惑いつつも、代表のハリスと握手をしているほどなのです。

一方、長州藩過激派は違います。

「松陰先生は攘夷のために生きて、幕府の開国に反対して、そうして幕府によって殺されてしもうたんじゃ。今更攘夷を辞めたら、先生の死が無意味になってしまう!」

彼らの掲げる理想は吉田松陰のもので、既にこの世の人ではないのです。
考えが、変わることはありません。

それと攘夷には、長州にとってメリットもありました。

◆民衆の反幕府感情を増幅させる

攘夷の結果、外国人が殺傷される

被害者の出身国から、幕府が多額の賠償金を請求される

賠償金のために増税、反幕府感情が増幅される

◆民衆の人気取り

攘夷の結果、外国人が殺傷される

「やったッ、さすが長州さん!! 弱腰幕府にできない事を平然とやってのけるッ! そこにシビれる! あこがれるゥ!」

民衆や尊王攘夷派の間で人気が高まる

攘夷には長期的な視野で見るとマイナス点ばかりです。
賠償金に関しても、ブーメランとなって明治政府以降に持ち越される羽目になっております。

ただし、
【幕府の屋台骨を傾け、倒すこと】
に限って考えると、メリットはあったわけです。

 

「八月十八日の政変」

孝明天皇は、だんだんと焦り始めていました。

身に覚えのない勅令が出されている。
「天皇陛下に逆らうんか!」と、頼んでもいないのに勝手な行動をする者がいる。

なぜこんなことが?
天皇は、悩みました。

孝明天皇/wikipediaより引用

実は、長州藩と息の合う攘夷過激派の公卿たちが、勅令を出していたのです。

その結果、上洛した将軍家茂が実行不可能な攘夷の約束をさせられたり、孝明天皇の意図だとして外国船砲撃が行われたり、大変な事態に陥っていました。
孝明天皇の深い悩みも知らず、久坂は久留米藩の真木和泉とともに、ある計画を画策していました。

「大和行幸」です。

天皇自ら神武天皇陵、春日社(春日大社)、伊勢神宮に参拝して攘夷祈願を行い、「攘夷親征(攘夷のために天皇自ら戦う)」の機運を盛り上げようという計画でした。

これを受けて、幕府はプレッシャーを感じるはずでした。
天皇自ら出てくる前に攘夷をせねば、政権を譲ることになるかもしれない――そう思うに違いない、と久坂と真木は考えたわけです。

この読みは、正しいと言えます。
幕政の中心にいた松平春嶽は、この時期、こう考えています。

「このままでは政治の命令が幕府と朝廷の二カ所から出ることになってしまう。朝廷から幕府に政権委任してもらうか、幕府が朝廷に政権を返すか選び、命令系統を統一せねばならない。さもなければ国が破綻しかねない!」(「政令帰一論」)

春嶽は家茂に政権放棄を迫り、逼塞処分を受けることになります。

もし久坂らの狙い通り大和行幸が実行に移されたら?

幕府も春嶽の言葉通り、そこで政権を返上したかもしれません。
しかし、他ならぬ孝明天皇の我慢が限界に達しました。

天皇は、信頼出来る側近の中川宮(久邇宮朝彦親王)に嘆きます。

「誰ぞ、武で君側の奸をのぞく者はおらんやろか……」
この思いが、長州藩に敵意を抱く薩摩藩と、京都守護職・会津藩に伝わりました。

天皇の側近、長州藩の突出に不快感を抱く諸藩(藩主が京都所司代をつとめた淀藩、徳島藩、岡山藩、鳥取藩、米沢藩)が結託し、アンチ長州包囲網が形成されてゆきます。

こうして文久3年(1863年)8月18日深夜、薩摩と会津の兵に警護された御所から、以下の勅旨が出されました。

・大和行幸の延期
・国事参事、国事寄人の廃止
三条実美以下攘夷派公卿20名の参内禁止

長州藩は、御所堺町御門の警備任務を解かれ、都から撤退するほかありませんでした。

「既に西へ帰るよう決められてしもうた。わしらの藩の勤王の道は、これでもう終わりなんじゃ……」
久坂はそう嘆きました。

長州藩は2千人の兵士と、三条実美ら失脚した7人の公卿とともに都を追われるほかありませんでした。
勅をふりかざして政局をリードしてきた長州藩が、勅によって追い払われてしまったのです。

彼は、妻の文にこの事件をこう伝えました。
「18日に、いかにも悔しいことだが、悪人どもが禁裏を包囲して、おまけに堺町御門の警備を解いてしもうたんじゃ。けしからん、憎たらしいこと、本当に残念なことじゃ」

この「八月十八日の政変」は、公武合体派が長州藩を追い落とした事件とされていますが、その背後には孝明天皇の意志があったことは重要です。
久坂には認められないことだったでしょうが。

どうもこのあたり、久坂はじめ尊王攘夷派は、孝明天皇を意志ある生身の人間というより、自分たちの言動を後押ししてくれる便利な概念として見ていたのではないかな、と思わなくもありません。

 

悪いのは「薩賊会奸」である

立ち塞がる逆境。
しかし、これでめげるような久坂ではありません。

長州側の見解は、こうでした。

「わしらは孝明天皇の叡慮である攘夷を忠実に行っただけじゃ。功こそあれ、罪はない。悪いさあ、陛下をたぶらかせた薩摩と会津じゃ」

彼らはリベンジを誓いました。
積もった恨みを晴らすがごとく、「薩賊」「会奸」と下駄に書いて踏みつけて歩いた者もいたとか。

久坂は、京都で長州藩に同情的な皇族や公卿に協力を打診しました。

金払いがよく、粋な遊びを好み、色街中心に豪遊した長州藩士は、町の人々にも大人気でした。
彼らにすれば、長州藩は憎い異人を追い払う正義の味方です。
久坂は、その中心にいる、悲運のイケメンプリンスといったところでしょう。彼らはひそかに長州藩士にエールを送っていました。

とはいえ、いくら町人が長州藩を支持しようと、孝明天皇が動かせなければ無駄なのです。

長州藩では、朝廷に弁明の使者を送ろうとしますが、会津藩の反対により、伏見で止められてしまいます。
追い詰められた中で、久坂は養子に粂次郎(文の姉・寿子と楫取素彦の子)を迎えました。

久坂も文もまだ20代前半で、実子を持つことは望めたでしょう。

しかし、それもその余裕があれば、の話。
久坂は、自身の命運を予感していたのかもしれません。

 

沈む薩摩船と「上関三士」の死

長州藩では、薩摩への憎悪が募りに募っておりました。
「八月十八日の政変」の件もありますが、理由はそれだけではありません。

攘夷のトップリーダーは、かつて長州藩でした。
ところが薩摩藩が、生麦事件と薩英戦争を起こし、その座を奪ってしまったのです(薩摩側はそんなことを競ったつもりもないでしょうが)。

そんな最中、長州藩は、薩摩藩がイギリスと密貿易をしていることを嗅ぎつけます。

当時は南北戦争の最中であり、イギリスはアメリカから綿花を輸入できなくなっていました。
そこで、薩摩産綿花を買い付けることにしたのです。

「薩摩というさあ悪い連中じゃ。攘夷と言いながら、イギリスと貿易をしちょるじゃないか。化けの皮を剥がしちゃる」

文久3年(1863年)末。
長州藩は外国船だと勘違いしたとバレバレの嘘をつき、薩摩船「長崎丸」を砲撃して撃沈します。

「まさか薩摩の船たぁ思わだった。外国船じゃと思うた。攘夷のつもりじゃった」
というわけですね。

当時の船舶イメージ(画像はオランダ製軍艦の開陽丸)/Wikipediaより引用

 

この事件で、薩摩藩士28名が死亡しました。
単に藩士が亡くなった――というわけではなく、航海術に長けた者が亡くなってしまい、薩摩藩は困ることになります。

藩内はむろん、久光も激怒。
しかし、ここで怒りを表明すれば、密貿易の件が明るみに出かねません。耐えるほかありませんでした。

そんな最中、別の事件が発生します。
元治元年(1864年)2月、周布・別府浦に停泊中の、薩摩商船が砲撃を受けて沈没したのです。
しかも、貿易商であった船主の姿は消えていました。

それから数日後――。
大阪に、船主の首が晒されました。
斬奸状によれば、
【外国との密貿易を行い天皇の意に背いたため、成敗した】
とのことです。

首の前では、長州藩士の山本誠一郎と水野精一が切腹しており、発見時には事切れておりました。
さらにそのあと、高橋利兵衛という男が、周布の寺で切腹しているのが発見されます。

商船砲撃および船主殺害は、この3名の仕業でした。

後に「上関三士」として、靖国神社に合祀される3名ですが、ここまでが表向きの話でして。
この話の裏には、策略がありました。

薩摩商船砲撃犯人は、実のところ不明でした。
そこで久坂ら、藩の指導部は、薩摩を非難し、長州に同情を集める、一石二鳥の妙案を思いつきます。

藩主導の下、【命を捨てる】ということは伏せられたまま、「首を晒すための」実行部隊が集められました。

水野が名乗り出て、1人では足りないため山本も説得。

「この首を大阪に晒して来んさい」
そう命を受けた2人は、大阪に向かいます。

そして首を晒した2人が帰ろうとすると、おもむろにその足を止められるのです。

「ここで腹を切りんさい」
藩の非情な命令に対し、水野と山本は驚き逃れようとしますが、追いかけられて出来ないと悟り、腹を切りました。
山本はなかなか死のうとしないため、無理矢理介錯、つまりは殺害されました。

この策略は、久坂の読み通り当たりました。

「なんちゅうこっちゃ、薩摩は勝手に密貿易しとったんや!」
「穢らわしい夷狄相手に金儲けかいな、えげつないわ~」
「それに引き換え、長州のお侍さんは、たいしたもんやな。正義のために腹を切る。これぞ義士やで!」

大阪の人々は、薩摩藩の卑劣さに怒り、上関三士と長州藩に同情を寄せたのです。
切腹現場には、忠臣の遺徳を偲び、民衆が押し寄せました。

かように久坂はじめ長州藩は、人心掌握術に長けておりました。
ゆえに京都でも大阪でも大人気だったのです。

長州としても、この一件で大衆の心を掴んだことを確信したのでしょう。
この時期、島津久光殺害予告を大阪で配布しました。

しかし偉いのは、殺害予告された久光でして。

後世の作品では【短気・狭量・冷酷・愚昧】と散々な評価を受けがちな彼ですが、こうした挑発にぐっとこらえる器量を持ち合わせていたのです。
本当に悪評通りの性格ならば、ガチギレしていてもおかしくはないところ。

島津久光/wikipediaより引用

一方、久坂は、純粋過ぎて命を落とした青年志士というイメージがあります。
それだけが、彼の本質ではありません。

マキャベリズムも持ち合わせ、時に冷酷に振る舞う。
そして適切に人々の心を引きつけ、世論を動かす。
そんな智力を、持つ男でした。

 

歯止めの利かない長州藩進発派

長州藩不在の京都では、政治的混乱が続いていました。

かつての一橋派がめざした、将軍後見職・一橋慶喜と、優れた大名による合議政治(「参預会議」)が行われるようになったのですが、うまくまとまらないのです。

さて、この状況をみて、長州藩はどうすべきか?
意見は真っ二つに分かれていました。

慎重派:高杉晋作、周布正之介(すふ まさのすけ)
進発派:久坂玄瑞

かつて「松下村塾」では、暴れん坊の高杉と、慎重な久坂と認識されていました。
が、この頃には逆転しています。

高杉は、
「久留米藩の大馬鹿者の真木和泉保臣と、わしらの藩の大馬鹿者の久坂。こいつらがグルになって何か企んだら、何をしでかすかわかったものじゃない」
とボヤいておりました。

しかし結果は、進発派の勝利。
高杉と周布が失脚し、京都進発が決定事項となったそのとき、衝撃的な事件が起こります。

「池田屋事件」です。
【関連記事】池田屋事件

この事件は、京都を放火して天皇を拉致するクーデター計画を阻止するためだったとされていますが、そもそもそんな計画があったのかどうか、現在は諸説あります。

ただ、長州藩進発派上洛前夜のことであり、その計画がクーデターとして察知された可能性はあるわけでして。
この事件で、長州藩士で「松下村塾」出身の吉田稔麿ら、多くの犠牲者が出ました。

吉田稔麿/Wikipediaより引用

長州藩進発計画は、弔い合戦の様相も帯びていくのです。

 

文と辰路

久坂は動乱の京都に行く前、養子・粂次郎に一目会いたいと切望しています。
そこには、家族を思う切々たる思いが感じられるのです。

が、ここでちょっと突っ込みどころがありまして。

養子・粂次郎には会いたがるのですが、妻・文とは会おうとしないのです。

気を揉んだのか、文と松陰の兄である杉梅太郎が、萩で妹・文に会って欲しいと頼みますが、久坂は断ります。
久坂は文を好みの容姿ではないと述べておりますが、それが原因かどうかはともかく、彼女への熱烈な愛情はあまり感じられません。

残された手紙の文面も、事務的でした。
これは仕方ないことで、当時の人々にとって結婚とは、あくまで家の存続のためのものであり、恋愛感情がなくとも不思議ではないのです。

それでも文は、おそらく初恋の相手であった久坂を生涯慕い続けました。
亡夫の手紙を大事に保管し『涙袖帖』としてまとめるほどでして。

彼女はその後、姉の夫であった楫取素彦と再婚しますが、その際にも『涙袖帖』を持っていったそうです。
そして晩年まで、この『涙袖帖』を読み返していたのでした。

フィクションにおける久坂のロマンス相手は、文よりも、京の美妓として有名であった辰路の方が有名でした。
美男美女の絵のなるカップルとして、この二人は人気があったのです。

 

 

久坂と辰路の間には、秀次郎という男児が生まれております(母親は佐々木ひろ等、別人という説もあり)。

秀次郎は久坂家の跡継ぎとして認知。
久坂家に養子に入っていた粂次郎(文の姉・寿子と楫取素彦の子)は、実家に戻されました。

文からすれば、夫を失い、我が子として育てた粂次郎を戻さねばならず、家は愛人の子が継ぐわけで、かなり複雑な心境であったと思われます。

前述の通り、現在まで伝わる久坂の肖像画は、秀次郎をモデルとしたものです。

久坂玄瑞/wikipediaより引用

 

禁門の変」に散る

運命の元治元年(1864年)6月。
久坂らは、三田尻を出航し京都を目指しました。

長州藩兵3千名が、伏見・嵯峨・山崎に着陣すると、これに対し、一橋慶喜は強硬に撤兵を要求します。

久坂はここで、世子・毛利元徳の到着を待つべきだと考えました。
これに納得できないのが、来島又兵衛です。
来島は、世子到着の前に「君側の奸を倒すべきだ」と主張します。

そんなことをしては朝敵になる、しかし退くに退けない――こうして久坂は、後戻りできない道へと踏み込んでゆきます。

禁門の変(蛤御門の変)を描いた様子/Wikipediaより引用

軍勢は三手に分けられ、それぞれが御所へ向けて進軍しました。

御所を守るのは、薩摩と会津。
奄美大島から復帰した西郷隆盛の奮闘もあって、来島は御所の前で撃退、戦死を遂げます。

久坂は、長州藩に同情的であった関白・鷹司輔煕邸へと撤退しました。
そこで鷹司にすがりつき、朝廷への参内を嘆願するのです。
が、そんな願いが聞き入れられるハズもなく、久坂は鷹司邸の門から出たところで越前藩兵に襲われ、左脚を負傷してしまうのでした。

傷は骨まで到達し、真っ赤な血が脚を染めてゆきます。
久坂の白い顔は、みるみるうちに蒼ざめました。久坂は手ぬぐいを傷口に巻き付け、屋敷内に戻ります。

傍らの寺島忠三郎は、久坂にこう声を掛けました。
「もうやろうか」

久坂は答えます。
「もうよかろう。殿に迷惑をかけるわけにゃあいかん。わしは腹を切る」

こうして追い詰められた久坂は、切腹して果てました。
享年25。

久坂の墓/photo by mariemon Wikipediaより引用

久坂は志半ばにして斃れましたが、彼の遺志を継いだ長州藩士たちの歩みは止まりません。
彼らの手によって、明治維新が成し遂げられることになります。

 

久坂の不可解さ

久坂の生涯をたどると、不可解な点がわいてきます。

愚かであったとは、到底思えません。
切れ者であり、怜悧です。

後に西郷隆盛は木戸孝允に対し、こう語ったとされます。
「あたん国ん久坂先生が生きちょられたなら、おいどんらは互いに参議などと威張ってへられんやろう」

西郷や木戸より、才略において上であった。
そう評価しているのです。
多少はリップ・サービスが入っていたとしても、能力のほどが知れるでしょう。

ただ、そこまで賢い久坂が、なぜ攘夷の非を悟らず無謀な砲撃を続けたのか。
なぜ、孝明天皇の意志に反して現実逃避するようなことを続けたのか?

挙げ句、高杉晋作の反対まで押し切って京都に進発し、散ることとなったのか?

その判断が難しいのです。
久坂の目的がいまひとつわかりにくい。

例えば、
【勝海舟の目指した国家像はどのようなものでしょうか?】
という問いには、答えが簡単に出ます。
嘉永6年(1853年)に彼が幕府に提出し、阿部正弘が太鼓判を押した案があるからです。

実際に目指した国家像は、実はこの勝あたりのプランが正解で、明治政府の行った政策とほぼ一致します。

一方で、久坂や彼の師である吉田松陰のめざした国家像は、どうしても勝のものと比較すると具体性に乏しく、大言壮語的に思えてしまうのです。

吉田松陰の明言というのは素晴らしく、若者の夢や好奇心、可能性を伸ばすようなものがたくさんあります。
シニカルでひねくれがちな勝よりも、名言集にはふさわしいものです。

「至誠にして動かざるものは、未だこれあらざるなり」
うんうん、その通りだ!
人というのはこうでなくてはいけない!
そう思えてしまいます。

ただ……夢や志を持って立ち上がり、自分の可能性を信じて、たくさん勉強して、素晴らしい国を作るというのはわかったけれども。

『その素晴らしい国を実現するためにはどういう政策が必要なのか? 何をすればよいのか?』
となると、ちょっとこれが掴みにくいのです。

行動となると、さらに難しい点があります。

勝の場合は、「これから海軍を鍛えないと話にならねえ。海軍伝習所を作るぜ」となる。
一方で久坂の場合は、
「わしらの意見を通すために、公卿を動かして勅を出してもらおう」
となってしまう。
具体的な行動の前に、正統性を強化しようとするのです。

幕臣と長州藩士では立場が違う――それはもちろんありますが、本当に国家をよくするためにその行動は必要なのか、イデオロギーを重視し過ぎてはないか、と感じてしまいます。

一般的に、こうした久坂の行動は、尊皇攘夷を掲げた純粋さの発露とされています。

でも、本当にそうでしょうか。
彼の中ではむしろ、師匠であり義兄である吉田松陰の思いが第一で、尊皇も、攘夷も、その実現のための、手段ですらあったように思えるのです。

久坂は尊皇を掲げて、孝明天皇のために尽くし、そのために滅んだという見方もあります。
それはむしろ、久坂が憎んだ松平容保のことではないでしょうか。
久坂の言動は、むしろ孝明天皇の意志に反しています。

尊皇も、攘夷も、倒幕も――それは生前、松陰が掲げた理想でした。
情勢や世間の人々の考えが変わり、天皇の意志まで動いても、松陰未完の遺志は死者であるがゆえに絶対に動きません。
亡霊のようにそこに留まり続けるだけです。

久坂の中で、松陰の思いは北極星のように絶対不動のものでした。
情勢に合わせて身の振り方を変えるよりも、情勢を松陰の遺志に近づけようとする――それが久坂の努力であり、純粋さであったのでしょう。

久坂は必要とあれば、謀略の行使も辞さない男でした。
しかし、その謀略は自らの利益を得るためでも、長州藩を有利に動かすためでもなく、【松陰の遺志を貫徹するため】と考えると様々なことがスンナリ繋がる気がしてなりません。

より純粋であるために、謀略を行使する――。
一見、矛盾したことが、松陰と久坂の関係性では成立してしまうのですね。

 

松陰後継者としての生き方

天涯孤独の久坂にとって、家族のように彼を迎え入れ、義弟にまでなってくれた吉田松陰。
彼を見込み、育て上げてくれた松陰。

教育者としての彼は温かみがあり、熱血漢で、素晴らしい人物であることは言うまでもありません。

しかし、冷静に考えてみますと……。
松陰は、アナーキーな人物であります。

・宮部鼎蔵との東北旅行の際、予定していた出発日を守るため、長州藩からの過書手形(通行手形)の発行を待たずに出発。当時の重罪である脱藩をしてしまう
・金子重之輔とともに、長崎に寄港中のロシア軍艦に乗り込もうとするが失敗
・金子重之輔とともに、漁民の小舟を盗み、ペリー艦隊の旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せて乗船するも渡航拒否される。下田奉行所に自首、投獄される
日米修好通商条約締結に激怒、老中・間部詮勝に攘夷実行を迫り、断れば殺害する計画を立てる。この際松陰は、「死を恐れない少年3、4名を松下村塾まで手配して欲しい」とまで考えていたほど
・伏見で藩主・毛利敬親を待ち伏せし、京に入る計画を立てる

確かに彼自身は純朴で、よい人ではあったかもしれません。

しかし、その言動は過激の一言。
彼の本質は革命家であり、そのために国のルールを破ることは何とも思っていなかったのでしょう。

松陰ってそういう人だっけ?と思う方もおられるかもしれません。

大正から現在にかけて、教育現場で教えられる松陰は、無害な熱血教育者像です。
国と正義感を大切にする、品行方正な青年であった――そう教えられているのです。

むろん、それは否定しません。
吉田松陰の熱烈な愛国心は、疑問の余地を挟めないほど素晴らしく、教育者としても極めて優れていたことは間違いありません。

ただ、それだけの人物でもないわけでして……。

久坂の言動に関しては、こうした松陰のアナーキズムまで継承したと考えれば、納得できるかもしれません。

松陰が間部詮勝暗殺計画を持ちかけて来た際、久坂と高杉晋作は断りました。
そのため松陰は久坂にすっかり失望していたほどです。

しかし松陰の死後、前述の通り久坂は、その死を悼み大々的にプロデュースしています。
好意的に見れば、義兄であり恩人である松陰を顕彰したい純粋な気持ちと言えます。

久坂は松陰を祭り上げる過程で、彼の言葉を信じ、酸素のように吸い込み、酒を飲むように酔ったのだとは考えられないでしょうか?

かつて松陰の暴走を諫めていた久坂が、師のように暴走し、過激な行動に出てるようになっているのです。
かつてのライバルである高杉が「大馬鹿者」と呆れるほど、先鋭化していったのです。
松陰の思想と一体化するあまり、そのアナーキーさまで取り入れてしまったかのように思えます。

吉田松陰にせよ、久坂玄瑞にせよ、敬愛すべき点はたくさんあります。

しかし、敬愛と盲信は、別物でしょう。

明治維新150周年という節目を迎えている今年、彼らの反省点を今後に生かしても、未来への財産となるはずです。
久坂や松陰が抱いていた、自分が正しいものに突き進むためには、手段すら選ばなくてよいという傾向は、反面教師とすべきでしょう。

「ここで意見を曲げたら、このために犠牲になった先人が報われない!」
そんな動機で失敗へと突き進んで、振り返らず前進するような行動も、慎むべきでしょう。

先人を知り、その見習うべき点と欠点を客観的に判断し、良いところを吸収すること。
それが私たちに求められていることではないでしょうか。

文:小檜山青




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【参考文献】
吉田松陰 久坂玄瑞が祭り上げた「英雄」』一坂太郎
国史大辞典
やまぐちISHIN




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