奥羽越列藩同盟旗/photo by Pentacube (talk) wikipediaより引用

幕末・維新

奥羽越列藩同盟とは?戊辰戦争の東北31藩~中心は伊達家の仙台藩だったが

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慶応四年=明治元年(1868年)5月3日、東北諸藩の間で「奥羽越列藩同盟」が結成されました。

江戸城の無血開城や会津戦争のインパクトに隠れて比較的目立ちませんが、戊辰戦争においては非常に重要な存在。

前後の時系列を確認しつつ、注目してみましょう。

 

1分でわかる戊辰戦争の流れ

①鳥羽・伏見の戦い

②江戸城無血開城

③奥羽越列藩同盟結成 ←今日ここ

④会津戦争

⑤函館戦争により戊辰戦争終結

実際には戦線があっちこっちに分かれて同時進行していたので、もっと複雑なんですが……特に大きなできごとを並べるとこんな感じです。

他に当コーナーで扱った戊辰戦争中の出来事としては、上野戦争もありますね。

彰義隊が散った上野戦争 旧幕府軍の悲しき結末を振り返る

慶 ...

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函館戦争は、以下にまとまっておりますので、よろしければご覧ください。

五稜郭と四稜郭と箱館戦争~土方歳三が亡くなり榎本武揚が降伏するまで

明 ...

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では、本題へと参りましょう。

 

謝っても許されないならば「見せましょう、東北の力」

さて、前置きが長くなりましたがいよいよ本題です。

会津・庄内両藩は、幕府の要職についていたり「尊皇攘夷派ブッコロ!」なことをしていたため西軍(明治新政府)に睨まれており、武力で潰される恐れがありました。

そこで会津藩主・松平容保(かたもり)が隠居。
新政府へ恭順する意思を示しましたが、新政府に「そんなんでチャラになると思ってんの?^^」(※イメージです)と難癖を付けられます。

庄内藩も同じように新政府へ恭順の意を示したところ、“市民”が「なんでウチが謝らなきゃいけないんですか! 何も悪いことしてないのに!」と奥羽鎮撫総督(新政府側の東北担当部署)に訴えたため、かえって武力討伐の口実を作ってしまいました。

一部の人は自藩の一部だった北海道の領地をプロイセンへ譲る代わりに助力を頼んでいたのですが、これはビスマルクに「ウチ中立なんで」という理由で断られています。
プロイセンの中には賛同しようとする人もいたらしいですけどね。

この流れによって、会津・庄内藩は「あれ? これもう話し合っても解決できなくね?」と悟り、会庄同盟を結成しました。
要するに武力で抵抗――というわけです。

そしてお偉いさんよりも先に、もっと下の人々が戦をおっぱじめてしまいました。

 

奥羽越列藩同盟が結ばれて

庄内藩主・酒井忠篤は、その様子を聞いてビックリ仰天。
すぐに撤退を命じましたが、官位を剥奪されて見事「朝敵」になってしまいます。

こうした中、奥羽鎮撫総督に対し、他の東北諸藩が願い出ます。

「会津藩も庄内藩も好きでやったわけじゃないんですよ。どうかもう一度話を聞いてやってください」
これに対して新政府側は、既に朝敵認定をした後ですから、「やーなこった」(※イメージです)と突っぱね!

そもそも内戦を引き起こす武力倒幕は西軍サイドでも疑問視されていたのですが、西郷隆盛らが強引に推し進めたという見方が濃厚です。

武力倒幕は岩倉や薩摩藩ですら「下策」としていた!なのにナゼ西郷は強引に?

と ...

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そして奥羽鎮撫総督のとある人物が解決(物理)のため増援を願い出る手紙を上方へ送ろうとし、それを持った密使が東北諸藩側の人間に捕まるという出来事がありました。

まあ、当然のことながら中身を見ますよね。
その中に「奥羽皆敵」と書いてあったため、諸藩は見事ブチギレ。

「そっちがその気ならやられる前にやってやんよ!!」とばかりに、これを書いた人物を急襲・処刑してしまいました。
どう見てもオリハルコン製のフラグが立ってます。

これを隠して奥羽越列藩同盟を結び、今度は京都の新政府に直接交渉することにしました。
と、これまた決裂。
会庄同盟と同じくこちらの同盟も武力を伴った性格に変わります。

かくして戊辰戦争は全体で1年半ぐらい続きます。
世界史レベルで見た大きな内乱に比べれば短いですが、もしもこれ以上長引いていたら欧米列強からどんなちょっかい出されるかわかったもんじゃありませんしね。

 

外国の資料では「現在日本には二人の帝がいる」

正式な盟約書を交わした5月3日の時点では25藩が参加。
6日までにさらに6藩が加わり、計31藩の大規模な同盟と化します。

このため正式発足の日付には諸説ありますが、今回は盟約書が交わされた日のこととさせていただきました。

奥羽越列藩同盟側の中心になったのは仙台藩の白石城(宮城県南部)です。

白石城

かつて「一国一城制度」が定められたとき、例外とされた城ですね。
関が原の際には東北戦線(伊達政宗vs上杉景勝で上杉方の拠点)の舞台となり、その後、伊達政宗の右腕だった片倉景綱とその子孫たちが預かっていたところでもあります。

政策や戦略もここで立てられ、北白川宮能久親王という皇族の方を盟主に戴き、その下に
◆仙台藩主・伊達慶邦
◆米沢藩主・上杉斉憲
がついて、制度はきちんと整えられていました。

北白川宮能久親王/wikipediaより引用

そのため、外国の資料では「現在日本には二人の帝がいる」と書かれていることもあります。

なぜか外国人には同盟側のほうが優勢に思えていたようですね。
戦に負けてしまったため、実際の政治能力については評価できないようですけれども。

 

各地で敗退を重ね、重い罪を科せられて

西軍との戦いは、無残なものでした。

戦線が分かれ過ぎたこと。
秋田藩の裏切りでさらに戦場が増えたこと。
近代化が遅れたこと。

こうした諸々の悪条件が重なったため、奥羽列藩同盟サイドは各地で敗退を重ねます。

そして戊辰戦争最後の戦い・箱館戦争の後で、半分以上の藩が減封や改易、お偉いさんの投獄・死罪という重い罪を科せられました。

もし会津・庄内藩を含めた他東北諸藩に、一人でも山岡鉄舟のような優れた交渉役がいれば、もう少し被害が少なくて済んだのかもしれない……そう思うと、現実の世知辛さを感じずにはいられません。

白虎隊などのことはもちろんですが、戦が終わった後の扱いが酷すぎますからね。

歴史は勝者が作る――とはよく言ったもので、薩長サイドに傾いた史観から
【西郷らが強引に推し進めた部分】
についてはあまり触れられることがありません。

特に、東北諸藩の人々が土地や家禄を奪われ、北海道へと追いやられるように開拓団を結成する流れについては、ほとんど知られることがないですしね。

その辺は漫画『ゴールデンカムイ』に関連して他の記事がございますのでお譲りします。
よろしければご覧ください。

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【参考】
国史大辞典
奥羽越列藩同盟/Wikipedia

 



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