鳥羽・伏見の戦い

鳥羽・伏見の戦い(上:富ノ森の遭遇戦と下:高瀬川堤での戦闘)/wikipediaより引用

幕末・維新

鳥羽・伏見の戦いで注目すべき慶喜の大失態~幕府の敗北は当たり前?

慶応三~四年(1867~68年)は幕末維新が最も動いた混乱期。

この時代を振り返る上で非常にややこしいのが、慶応4年(1868年)1月3日に勃発した【鳥羽・伏見の戦い】でしょう。

大政奉還が実施されたはずなのに、なぜ戦いは起こったのか?

実際の戦闘だけ見れば「幕府の負け」でまとめられますが、そもそも合戦が始まった理由や、当初は圧倒的有利だった幕府の敗因となると、前後の状況を把握しておかないと理解し難しいものがあります。

キーマンは何と言っても徳川慶喜

家臣たちには「最後まで戦うぞ!」と散々煽っておきながら、総大将が真っ先に戦地から逃げ出しているのです。

慶喜が逃亡した理由については、後に色々と語られたりもしますが、やはりそれは言い訳のできない大失態でしかない。

鳥羽・伏見の戦いを振り返ってみましょう。

 

開戦前夜、攘夷から倒幕へ

幕府はもう持たないのではないか?

そんな噂がなされるようになったのは、文久2年頃(1862年)とされています。

大久保利通は元治元年(1864年)の天狗党の乱の時点で、もはや幕府は滅びると書き残していた。

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幕臣でも福沢諭吉が憤りながら、もはや幕府を滅ぼすしかないと嘆いていたとされる。

もはや倒壊は免れないなら、如何なる幕引きをはかるか?

最後の将軍となる徳川慶喜は、ロッシュから「ナポレオン3世を目指しなさい」と助言を受け、幕政改革に取り組みました。

幕末という時代は、政治体制においても徐々に近代国家へ進化していたのです。ざっと見てみますと……。

【参預会議】

文久3年(1863年)から翌年まであった体制で、有力諸大名の合議制による政治。

近代国家への幕開けを示す革新的なものでした。

【六局制採用】

陸軍・海軍・外務、会計(貿易と物産)・内務・司法の六部局を採用する(諸侯あるいは賢い旗本幕臣から選ぶ)。

崩壊した参預会議の進化系ともいえるもので、フランスを元にしています。反発はあり難航したものの、おおよそ実現されました。

【軍役令】

軍事の増強と銃隊の組織化。近代戦に合わせた銃隊組織を作る。

幕府は無策でもなく、むしろ国家を変えるべく動いていたんですね。

一方で、志士と呼ばれる集団も方針を変えてゆきます。

外国捕鯨船の出現、そしてペリー来航以来、彼らは当初【攘夷】を掲げていました。

その中心にあったのは徳川斉昭藤田東湖が提唱した【水戸学】。

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迫り来る異人を倒すと叫んでいた彼らは、方針を変更したのです。

それが【倒幕】でした。

かつて敵対していた諸外国から武器を買い、西洋の技術を取り入れ、留学する。そして幕府を倒すと方針転換したのです。

 

西郷は武力倒幕をめざす

そうはいっても、コトはそう簡単ではありません。

長州藩は藩主が口を挟まないとはいえ、薩摩藩は藩主の父である島津久光が、藩政をコントロールしています。

倒幕前夜の慶応3年(1867年)、その久光も含めた四侯による【兵庫開港】をめぐる会議において、慶喜は諸侯を軽くあしらってしまいます。

慶喜の聡明さを示す話とも言えますし、久光の不快感や焦燥も理解できる。久光ほど慎重な人物であっても、もはや我慢が限界を超えてもおかしくはありません。

ただでさえイギリスのパークスは慶喜に好意的。イギリスと手を組んでいる薩摩からすれば疎ましいことこの上ない。

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そうなると、

「どうにかして慶喜を処理できないか?」

という課題が湧き上がってくるのは自然な流れであり、薩摩の西郷隆盛は、武力による倒幕を狙い始めるのです。

西郷隆盛といえば、上野公園の像が有名です。2018年大河ドラマ『西郷どん』でも、明るく親しみやすい像が描かれました。

しかし、それはあくまで後世のイメージだと思ってください。

彼の実像は甚だ戦闘的でした。カリスマ性と器の大きさに、禍を好む乱世の梟雄とも言うべき本質も備わっていたのです。

戊辰戦争を起こし、身ひとつでも乗り込んでやると征韓論を唱え、将来的には西南戦争に散る――そんな西郷の戦闘性が頭をもたげてきていたのです。

ただし、これはあくまで西郷周辺の暴走であり限定的とも言えます。

島津久光父子はじめ薩摩の上層部は武力倒幕に反対する意見が支配していました。

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それゆえここから先は、ややこしい局面に突入してゆきます。

 

【大政奉還】――土佐と幕府の奇策

武力を用いない倒幕――その路線では、土佐藩が大きな役目を果たしています。

藩主の父と藩主・山内容堂・豊信らの信頼を得た後藤象二郎坂本龍馬中岡慎太郎たちは大政奉還運動を進めていたのです。

板垣退助のような武力倒幕派もいますが、彼は藩内の主力ではありません。

土佐藩の考える最上の策は、あくまで大政奉還。それでも従わない場合に備え、武器を準備する。調達は坂本龍馬が役割を果たしています。そう準備を進める理由もわかります。

後藤は奮闘し、薩摩藩上層部の許可も得て、幕府に大政奉還案提出にまでこぎつけます。

ホイホイと権力を手放せと言われて、慶喜が乗るだろうか?

そんな懸念もありましたが、慶喜は大政奉還案に同意しました。

しかし慶喜に理解を示し、実行に移したのは永井尚志のみ。それ以外の幕臣から会津藩、桑名藩まで動揺するばかりです。

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こうした中、武力倒幕に反対していた人物たちが凶刃に倒れています。

坂本龍馬と中岡慎太郎の両者は、会津藩主・松平容保の命を受けた佐々木只三郎、今井信郎らによって暗殺。

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土佐藩の二人は、むざむざと幕府から政権を返上させたとして、殺害されたのでしょう。

かように実行犯を特定できていながら、暗殺の黒幕が薩摩藩であるという声は消えない。なぜか?

その理由を証明する事件があります。

赤松小三郎の死です。

赤松は薩摩藩・大久保利通の名を受けた中村半次郎(桐野利秋)によって暗殺されました。

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後の権力中枢である薩摩藩が関与しているだけに、赤松の死は語られることも少なく、功績と共に埋没していました。

幕末史における赤松の不在が、この時代の理解をより複雑にしているのでしょう。

いずれにせよ戦争を望む者たちが薩摩藩にいたことは明らか。戊辰戦争の原因を、会津藩ら佐幕勢力とする意見もありますが、そもそも殴りたくて仕方なかった西郷ら強硬派がいたのです。

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