パリ万博

パリ万博へ向かった幕府の使節団/wikipediaより引用

幕末・維新

パリ万博で渋沢が目にした3つの衝撃!1867年の第2回パリ万国博覧会

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スイス→オランダ→ベルギー→イタリア……

パリに到着した一行を待っていたのは慌ただしい日々でした。

宮廷行事であるオペラへの出席。

ホテルや借家の手配など。

勝手の知らない異国の地で、栄一は金銭的な役割を担い、借家の手配などに尽力しました。

栄一は、徳川昭武の邸宅を用意する際、他の随行員に反対されながらも家賃の値引き交渉に成功。

長期滞在を見据えた家具の準備も手配します。

栄一は、良くも悪くも西洋文明に驚き、それらを「進歩的」と受け入れたようです。

ところが、血気盛んな水戸藩士らは、郷に入っても郷に従わず、栄一と議論になることもしばしばでした。

博覧会への参加については思わぬ好評も得ます。

西洋の品々に圧倒されながらも、日本文化を象徴した出し物が人気を博しました。

後世で「ジャポニズム」と呼ばれる日本的文化の流行に貢献したとも言われ、彼らが第一等の表彰を受けていることからも、現地に受け入れられたとみていいでしょう。

ただし、これは「日本人がリスペクトされた」というわけではなく、「未開の地の野蛮人にしては良い文化を持ってるじゃん」という程度の認識であったのも、また事実。

万博では、欧米の列強諸国がアジア植民地から連れてきた「奴隷」が見世物になっていたこともありました。

パリ万博の俯瞰図/wikipediaより引用

こうして万博の主要行事が済むと、昭武は幕府が条約を結んだ西洋各国を周遊する予定になっていました。

ところが、です。幕府から旅に関する具体的な指示が一向に届きません。

栄一だけでなく幕府もアテにしていたフランスからの資金援助が受けられず、一行は金銭的に困窮。

それでも、向山黄村(むこうやま こうそん)全権大使は、独断での滞在続行を決意し、予定通り各国を訪問します。

スイス

オランダ

ベルギー

イタリア

マルタ

イギリス

と目まぐるしく動き、少なくとも表面的には各国で歓迎を受け、栄一も様々な知識を吸収していきました。

 


大政奉還

出発前の騒動こそあれ、順調に周遊をこなしていた一行。

しかし、その期間中、彼らは時に不穏な情報を耳にしました。

旅行の合間にいったんパリへと戻っていた9月、日本より派遣された栗本安芸守からこんな話を聞かされたのです。

「薩摩の工作によってフランスからの支援が打ち切られたから、交渉役として自分が来た」

さらに10月には「京都において将軍が政権を返上した」という知らせが、事もあろうにフランスの新聞に出ました。

さすがにデマだろ……。

と、大政奉還を信じられない一行。

大政奉還
慶喜と西郷の思惑激突~大政奉還が実施されても戦争が始まった理由

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これに対し、栄一は「あり得ないことではない」と周囲に語っていたといいます。

紆余曲折を経ながら周遊自体は無事に完了し、徳川昭武が長期滞在の準備を進めていた矢先、明治元年(1868年)1月のことでした。

突如、国許から「大政奉還が成立し、薩長と幕府の対決が明確なものになった」と告げられます。

更には鳥羽・伏見の戦いにおける敗戦の一報が届くと、それを目にした栄一は「戦うと決めたのに、そのやり方があまりにも拙いことに一番腹が立つ」と語ったと言います。

 

余剰金で投資に励むも資金が底をつく

幕府が敗れた――。

敗戦の事実に驚愕とするばかりの一行に対し、栄一はあっけらかんとしたもの。

「国に帰ったところで、どうすることもできない。それならば、少しでも西洋の知識を学んで帰ったほうが賢明だ」

と判断し、留学の継続を決めます。

問題は、費用でした。

幸い栄一はこれまで倹約に努めていたため、すぐに困窮することはありません。

それでも先々のことを考えれば心もとなく、余剰金を生かして【投資】に奔走します。武士とはいえ財務担当だけあり、お金の流れには敏感だったのでしょう。

しかし、そんな悠長なことも言ってられなくなります。

日本からは「王政復古と決まったので、帰国せよ」と催促を受けるのです。

栄一は「混乱中の国へ帰るのは得策ではない」として、先に、随行していた幕府の外国奉行を帰国させ、自身は滞在費用の送金を願いました。

むろんコトはそう甘くありません。

幕府は既に崩壊しているのです。

そこで栄一はあらゆる倹約を計画して長期留学を継続させようとするのですが……程なくして戊辰戦争が勃発し、水戸藩主・徳川慶篤が死して昭武の相続が決まると、もはや抗う術はありませんでした。

帰国を余儀なくされてしまったのです。

 


ヨーロッパ滞在で気付いた3つの衝撃

こうして、わずか1年半余りで早期帰国を余儀なくされた一行。

栄一としても、まだまだ学びたい心情で一杯でしたが、それでも大きな収穫はありました。

彼の回顧録では、主に3つの驚きを振り返っています。

◆国王がトップセールスをしている

ベルギーを訪問した際、国王が徳川昭武に対して、こう語りかける光景を見ました。

「国を強くするには鉄の存在が重要です。日本でも鉄を買うようにしなければなりません」

当時の栄一にとっては目を疑うようなシーンでした。

日本では将軍が「商売」に口を出すようなことはありえません。

士農工商」の身分制度からも明らかなように、日本ではお金や商売が軽んじられ(時に忌み嫌われ)、将軍が商売の話などもってのほかでした。

ただし、このベルギー国王のレオポルド2世は、凄まじいほどの虐待行為をアフリカ・コンゴで行っています。

レオポルド2世とコンゴ自由国
コンゴ自由国では手足切断当たり前 レオポルド2世に虐待された住民達

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リアルタイムでの栄一が知る由もかったことですが、ドラマでの取扱は慎重にすべきだったかもしれません。

◆「官」と「民」が対等だった

幕府の依頼で昭武の世話を務めたフランスの銀行家・エラール。

またナポレオン三世の命令で昭武の世話を務めた陸軍大佐・ヴィレット。

この銀行家と軍人のヤリトリを見ていると、彼らが対等な立場にあることにも驚きました。

先程の士農工商の話と同じで、「武士」と「商人」が対等というのもありえない話です。

栄一は日本の「官尊民卑」な習慣を痛感し、西洋の在り方を目指しました。

◆フランスでの株式や公債の購入

幕府からの送金が絶えた滞在末期に費用をねん出しようとした栄一は、エラールの勧めもあって余剰金で政府公債と鉄道株式を購入していました。

帰国時に整理のため売り払うと、鉄道株式が株価上昇によりかなりの儲けになるではありませんか。

「なるほど公債や株式というのは、経済にとって非常に便利なものだ」

この経験はダイレクトに渋沢栄一という人間に作用したのでしょう。

もしも長期滞在が実現していれば、さらに学びのある旅になったかもしれませんが、短期間で必死だったからこそ、素早く吸収し、日本でもその知識を応用することができたのかもしれません。

パリ万博への参加は渋沢の経済スキルを上げるだけでなく、日本経済そのものの発展にも寄与したのでした。


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文:とーじん

【参考文献】
公益財団法人 渋沢栄一記念財団『渋沢栄一を知る事典』(→amazon
渋沢栄一/守屋淳『現代語訳渋沢栄一自伝:「論語と算盤」を道標として』(→amazon
『渋沢栄一、パリ万博へ』国書刊行会1995年
鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇 (文春文庫)』(→amazon
国立国会図書館「1867年第2回パリ万博」(→link
国立国会図書館「コラム 渋沢栄一」(→link

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