2013年の大河ドラマ『八重の桜』が放送されるまで、主役である新島八重も、その兄である山本覚馬も、知名度は高くはありませんでした。
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地元でも歴史好きな人が知る程度。
会津でも戊辰戦争のヒロインといえば、「娘子隊」中野竹子のほうがずっと知名度が高かったほどです。
それが、すっかり新島八重が会津女性の代表格になり、そして、その八重よりも密かに評価の高まった人物がいます。
『八重の桜』では長谷川博己さんが演じ、当たり役でもありました。
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明治8年(1875年)3月20日が命日となった、川崎尚之助の生涯を振り返ってみましょう。
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軽佻浮薄 八重に不釣り合いな夫
尚之助の生涯は八重の夫であったこと以外はほとんど不明、離縁のいきさつも不明でした。
そのせいか、これまでのフィクションでは「八重を捨てたろくでもない男」とされがちだったようです。
激化する戦争に怯え、それを八重に叱咤されて逃げ出したり。
戦争の最中に何も告げずにふっと消えてしまったり。
こうした話から性格も逆算されて想像されるため、
・軽佻浮薄
・八重に不釣り合いな夫
とされることが多かったのでしょう。
新資料で実像が浮かんできた
ところがこの情けない川崎尚之助像が、綿密な研究と新史料で覆されたのです。
尚之助は、会津から遠く離れた但馬出石藩(兵庫県)の出身でした。
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そんな家に四男として生まれた尚之助が、才知を生かすことができたのは、幕末という動乱の時代だからということも大きかったでしょう。
江戸の名門・大木塾で蘭学や舎密学(化学)を学んだ尚之助は、優秀な学者として頭角をあらわし、それが会津藩士・山本覚馬の目にとまります。
才能をもてあます尚之助
覚馬という縁があって会津に招聘された尚之助。
しかし、藩は彼の才能に報いたとは言えません。
旧弊な体質が残る場所で彼の才能をもてあまし、山本家で居候をすることとなります。もっと進取の気質に富む藩であったならば、尚之助はもっと才能を発揮できたかもしれません。
やがて会津でも、藩校日新館で尚之助が砲術や蘭学を教えられるようになります。
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さらに29歳の時には、覚馬の妹で活発な八重と結婚を果たし、会津でも認められていきました。
そのころ会津は政治的に追い詰められ、戦争への道を着々と歩んでいたのでした。
会津戦争は砲術を得意とする尚之助・八重夫妻にとって、才知を発揮できる場でした。
しかし、言うまでもなく大きな悲劇であり、両者を引き裂くものでもありました。
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