こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【川崎尚之助】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
最後まで夫婦で戦っていた
従来のフィクションでは、この戦争のさなかに尚之助は姿を消しています。
あるいは、会津藩士でない夫を気遣って八重のほうから離縁を切り出したものもありました。
しかし実際の尚之助は会津戦争から逃げ出すことなどなく、八重もまた夫と離縁しようとは思いませんでした。
尚之助は会津の男として、八重と共に戦うことを選んだのです。
川崎夫妻は力を合わせて砲撃を続け、最後まで戦い抜きました。
なぜ会津は長州を憎んだのか~会津戦争に敗れた若松城と藩士達が見た地獄とは?
続きを見る
会津戦争の遺恨『遺体埋葬論争』に終止符を~亡骸埋葬は本当に禁じられたのか
続きを見る
『八重の桜』では、会津戦争終結後に男たちが猪苗代へ護送される際に、尚之助が八重を女であると明かして、両者は別れました。
しかしこれはドラマでの巧みな創作であり、実際には八重はいったん猪苗代へ向かうものの会津若松に戻り、その後、母や義姉、姪と合流しています。
一方で尚之助は、他の会津藩士とともに単身遠い斗南まで移り住み、夫婦は離ればなれになります。
斗南藩の生き地獄~元会津藩士が追いやられた御家復興という名の“流刑”とは
続きを見る
他の斗南藩士も助ける余裕がない
斗南で尚之助は窮地に追い詰められました。
窮乏した会津藩を救うため手を出した外国商品との取引で詐欺にあい、訴えられてしまったのです。
しかも共に取引に関わった斗南藩士の柴太一郎(柴四朗、柴五郎の兄)よりも重い罪をかぶり、尚之助はいつ終わるともしれぬ裁判に巻き込まれてしまいます。
幕末会津の敗残少年から陸軍大将となった柴五郎~苦難の生涯85年を振り返る
続きを見る
尚之助を引き立てた山本覚馬は、盲目になったうえ脚を悪くして京都にいます。
他の斗南藩士とて、尚之助を助ける余裕などありません。
結果として、会津のために尽くしてきた尚之助は、その会津から手をさしのべられることもなく、泥沼の訴訟に衰弱してゆきます。
ちなみに『八重の桜』や小説では川崎夫妻は再会をはたしますが、創作ではないかとされています。
裁判の渦中でひっそりとその短く不遇の生涯を終えた尚之助は、死後も報われることはありませんでした。
尚之助の身元保証人は会津藩士と疎遠となり、結果として尚之助の消息が語られることもなくなったのです。
成功した英雄にはない悲哀を帯びた魅力
山本兄妹も、川崎尚之助を語ることはありませんでした。
特に八重はプロテスタントに改宗して再婚しましたから、前夫のことは語りにくい状況であったのではないでしょうか。
会津を捨てたどころか、会津のために戦い抜き歴史の中に消えていった川崎尚之助。
その生涯に光が当たり、名誉が回復されたのは喜ばしいことです。
彼とその妻八重が何を思い、夫婦の間で何があったのかは、謎につつまれています。
しかし、何よりも彼の行動が雄弁に彼自身を語っているのではないでしょうか。
会津にとらわれなければ、その才知を生かし、明治にも活躍できたかもしれないのに、尚之助はそうしなかったのです。
あまりに一途な彼の人生には、成功した英雄にはない悲哀を帯びた魅力があるのです。
あわせて読みたい関連記事
新島八重の軌跡を辿れば幕末と会津がわかる~最強の女スナイパー86年の生涯
続きを見る
会津まつり&綾瀬はるかさんと言えば『八重の桜』いま見ても面白い魅力を解説!
続きを見る
江戸三大お家騒動の一つ「仙石騒動」は相続とカネが絡んで最悪の結末
続きを見る
授業中でもケンカ上等だぁ! 会津藩校「日新館」はやはり武士の学校でした
続きを見る
幕末で日本一の秀才だった秋月悌次郎~会津の頭脳をつなぐ老賢者とは
続きを見る
なぜ会津は長州を憎んだのか~会津戦争に敗れた若松城と藩士達が見た地獄とは?
続きを見る
【参考】
『会津人群像 第22号(2012)―季刊 特集:八重の夫・川崎尚之助の真実』(→amazon)
あさくらゆう『川崎尚之助と八重―一途に生きた男の生涯』(→amazon)