大奥

『千代田之大奥 歌合』画:楊洲周延/wikipediaより引用

江戸時代

江戸時代の「大奥」はどんなシステムだった? 気になる側室候補は家柄が第一

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身分が低くても

側室コースの例外として、もっと低い身分の女中が直接将軍の目に留まることもありました。

大奥にはやはり表と同じように、将軍にお目見えできる身分とできない身分があり、前者の場合は御中臈になる前から気に入られることもなくはなかったのです。

その場合も、まずは身分を御中臈にしてから将軍の御前に出ていました。

 


大奥女性のほとんどは役人コース(御右筆や呉服の間など)

大奥女性のほとんどは役人コースです。

わかりやすいのは、日記や書状を認める「御右筆(ごゆうひつ)」や、将軍・御台所の衣装を仕立てる「呉服の間」でしょうか。

これらは完全に専門職で、御右筆頭や呉服の間頭として出世することはあっても、側室候補になることはありません。

また、さまざまな意味で重要だった役職が「御錠口(おじょうぐち)」です。

大奥は将軍の普段の生活の場である中奥と廊下でつながっていたのですが、そこには錠前がつけられており、みだりに出入りすることはできませんでした。

この錠前のところで、出入りする者を検分するのが御錠口の役目です。今で言えば警備員に近いですかね。

大奥最高の権力者である御年寄になるためには、形式的にでも御錠口を経験する必要がありました。

最後の大奥御年寄・瀧山も、数日だけ御錠口を務めたといいます。

その他、雑用係や調理人など細々した役職がたくさんありましたが、現在の平社員とは違い、一番下の者でも、さらに召使いを雇うことができました。

二昔前くらいに「大奥美女三千人」という言い回しが流行りましたよね。

あれは、この下っ端の召使までを含めた人数に相当します。大奥の全ての女性が将軍にお目見えできたわけでも、将軍が手を付けていいわけでもなかったのです。

ついでにいえば、全員が美女だったわけでもありません。

大名家でも「器量の悪い者は嫁に行けずに苦労するだろうから、奥勤めをして生活が立ち行くようにせよ」といった考えはありました。ヒドイのか優しいのかビミョーなところですね。

 


大奥なのにオトコも働いていた!?

意外なことに、大奥のために働く男性もいました。

女性ばかりの空間ですので、基本的には力仕事も女性が行います。

しかし、やはり限界というものがありますので、見張り役をつけた状態で下男が大奥の仕事を手伝うこともあったのです。

彼らは大奥長局(ほとんどの女中が暮らす建物)と御殿向(御台所の居住空間)の中間あたりにあった「御広敷」という場所で暮らしており、大奥から呼ばれればすぐ働けるようにしていました。

といっても、応対するのは「御表使(おんおもてづかい)」という役目の女性だけでした。

これはやはり、男女のアレコレを防ぐためですね。

江戸時代は中期以降、「大奥の女中が外出した際にスキャンダルを起こす」ことがままありましたが、逆にいえば城中で「そういう関係」になれないからこそ、城外で羽目を外していたのでしょう。

さて、次はお金の話に触れておきます。

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