源義経/wikipediaより引用

源平

源義経31年の儚き生涯をスッキリ解説!兄・頼朝とすれ違い続けた悲しき英雄

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嗚呼、源氏、スレ違いがちな一族よ

さらに不幸なことに、彼らには間を取りもってくれる家臣や親族がおりませんでした。

唯一その立場になれそうだったのは、年齢的にも生まれ順的にもちょうど間になる範頼です。
が……彼は彼で、自分の失態を頼朝に詫びていた時期だったので、仲立ちになることは難しかったと思われます。

優秀なところもあるのにスレ違いがちな一族。嗚呼、源氏って切ないなぁ……(´・ω・`)

頼朝は、警告の意味をこめてなのでしょうか、義経を平家追討から外します。
しかし、文治元年(1185)の年明けには、再び同じ役目を与えて、義経に出陣を命じているのですから、やはり力を認めていたのでしょう。

実際、義経はその後、屋島の戦い壇ノ浦の戦いで連勝し、平家追討を成し遂げるのです。

しかし、ここでも彼はやっちまいました。
壇ノ浦の戦い前に頼朝の家臣・梶原景時と大ゲンカをしてしまったのです。
これがキッカケで、さらに頼朝の不信を招いたといわれています。

もちろん頼朝も、景時の告げ口をすべて鵜呑みにしたわけではなく、それまで続いた不手際や、三種の神器を取り戻せなかった失敗を重く見たのでしょう。

馬込万福寺蔵の梶原景時像/Wikipediaより引用

 

兄の許しを乞うため鎌倉へ出向くも門前払い

さすがにキナ臭くなってきた空気を感じ取った義経。

兄の許しを乞うために、捕虜となった平家のトップ・平宗盛らを鎌倉に護送するついでに直接弁明しようと試みました。
が、頼朝は門前払い。

それでも諦めず、相模の腰越というところに留まって、頼朝の近臣・大江広元にとりなしてもらおうとします。
結果から言いますと、これもダメ。

このとき書いた手紙が「腰越状」として知られています。

が、本当に義経が書いたものかどうかは不明です。
義経が広元に仲介を頼んだ可能性は高そうですが、腰越状は後世の脚色が多大に入っているでしょう。

もっとも広元は、自ら「成人してから涙を流したことがない」と言うような冷徹な人だったようなので、義経の情に訴えるような物言いや手紙では、取り次ぐ意味なしと判断している可能性は否定できません。
おそらくや広元の兄である中原親能が、平家討伐で義経に同行していたため、そのツテで広元に頼んだのでしょうが……相手に恵まれませんでしたね。

 

頼朝、再びチャンスを与えるが

義経は仕方なく、宗盛たちを連れて京都に戻りました。
後白河法皇はこの流れを見てうまくいっていると感じたのか、義経を伊予守に任じます。

当然のことながら、頼朝はさらに激怒。
それでも、もう一度チャンスを与えます(というか、その前に会えば良かったのに……)。

頼朝は義経に対し、以前、源義仲と手を組もうとしていた叔父の源行家を討つよう命じました。

 

源行家/wikipediaより引用

ここで義経が、にわかには信じがたいリアクション。
「今ちょっと体調が悪いので」と言い訳をして、行家討伐を断ってしますのです。

さすがに頼朝も
「あの野郎、もう俺の言うことをきくつもりがないんだな! よろしい、ならば戦争だ!」
と方針を決めてしまいます。

頼朝は、土佐坊昌俊という刺客を送り、義経を始末しようとしました。

しかし、源行家の助太刀もあり、逆に昌俊のほうが捕らえられ、
「頼朝から命じられて義経を襲った」
と白状。
もはや義経も温厚ではいられなくなります。

義経は、本当に行家と手を組み、次に頼朝追討の院宣を後白河法皇に求めました。

ガチのぶつかり合いを避けたかったのでしょう。
法皇は狼狽しますが、押し切られる形で院宣を出してしまいます。

 

戦乱で巻き込まないよう京都を離れる

コトここに至っては大規模な衝突は避けられない状況。

むろん、事前に、義経が命を惜しむか、頼朝に完全に服従するという考えがあれば、出家だけで何とかなったかもしれません。
しかし実際にはそうなりません。

頭に血が上ってしまったのか。
連戦連勝で調子に乗っていたのか。
武士の誇りを捨てられなかったのか。

鎌倉では義経討伐の準備をしていたものの、逆に頼朝追討の院宣が出されたことを知り、準備が整った軍を京都へ急行させます。

そのため公家や京都の市民たちは
「今度は源氏同士の戦で都が燃やされるぞ!」
と大混乱に陥りました。

保元の乱から武士の実力行使を見せつけられていた京の人々は、老いも若きも貴きも賤しきも、「武士が来る=自分の家が燃やされる」と思ってしまっていたのです。

義経は「俺がここにいては、関係ない人たちを巻き込んでしまう」と考え、自ら京を離れることを決めました。

話が前後しますが、義経の人気が高く、“判官贔屓”という言葉ができたのも、この
「京都を巻き込まないために自ら出ていった」
というところが大きいように思えます。

戦功を上げた武士はこの時代にも多々おりながら、
「他者の存在を意識し、被害を防ぐ」
ことまで考え、実際に行動したのは義経くらいですから、そりゃ支持しますわ。

もちろん感情的な理由だけでなく、既に頼朝の支配力が京都周辺にも及び始めていて、都の周辺で義経に味方してくれる人がいなかった……というのもあります。

ただ、この段階では義経もまだ命までは諦めてはおりません。

 

九州行きを模索するも嵐で難破、つくづくツイてない

義経は、まだ頼朝の手が及んでいないであろう九州行きを模索しました。

九州の人々は古来から「隼人」と呼ばれ、平安時代初期までは朝廷に対して反旗を翻すこともたびたびある土地柄。
彼らなら「味方になってくれるかもしれない」と希望を持っても不思議ではありません。

そこで、後白河法皇に頼んで九州の地頭に任じてもらい、船で向かおうとしましたが……嵐で難破してしまい、わずかな手勢ですら散り散りに。

その後は結局、頼朝方の追手をかいくぐって奥州へ向かいました。
側室・静御前との別れや、歌舞伎勧進帳」などはこの逃避行の中での話です。

えさし藤原の郷にて再現された義経街仏堂

この間、奥州からずっとついてきていた佐藤兄弟も追っ手に破れ、討ち死にしてしまいました。

奥州に着いてからは、まだ秀衡が存命中だったため、しばらくの間はかくまってもらえたようです。

しかし、文治三年(1187年)になると、奥州にいることが頼朝にバレ、奥州藤原氏への圧迫が強まります。
そして秀衡が亡くなると、跡を継いだ泰衡が圧迫に屈し、衣川の館(現・岩手県西磐井郡平泉町)で義経を討ってしまいました。

1189年のことで、享年31。

孤児同然だった義経が、武士らしくなれた場所である奥州で非業の死を遂げる――何とも皮肉めいた運命であり、悲劇としかいいようがありません。

当時の人々もそのように感じたのでしょう。
特に文化の中心地であった京では義経の人気が高く、『義経記』などの説話や生存説などが作られ、語り続けられました。

源氏の内輪揉めはお家芸レベルの頻発ぶりですが、義経に関しては「ここでこうしておけば」という点が特に目立つだけに、何ともやるせないものです。

仮に義経が頼朝と和解していたら?
たとえそうだとしても、例えばその後、源範頼に謀反の嫌疑がかかった際の尖兵にされた可能性や、北条氏との対立は避けられなかったでしょう。

悲劇が先延ばしになっただけかもしれません。
切ないですけれど。

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【参考】
国史大辞典
源義経/wikipedia

 



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