源平

奥州藤原氏の滅亡ストーリーがドタバタすぎて……最後は頼朝の一人勝ち

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源義経が兄の源頼朝とケンカし、逆らったために殺されたという話は有名ですよね。
ただし、直接手を下したのは頼朝やその配下ではありません。

文治五年(1189年)9月3日に滅亡した奥州藤原氏
この源氏兄弟の対立と深く結びついています。

【奥州藤原氏】
初代:藤原清衡
二代:藤原基衡
三代:藤原秀衡
四代:藤原泰衡

 

奥州藤原氏は故郷だった

そもそも義経が奥州へ逃げたのは、頼朝と合流する以前の青年期、奥州藤原氏を頼って平泉に住んでいたことがあったからです。

義経はここで当主・藤原秀衡ひでひらの支援を受け、家臣や馬などをもらったりしました。

父親に会ったことがない義経としては、秀衡が父親代わりでもあったのでしょう。
敵だらけになってしまった時には、最後の砦にも思えたでしょう。

秀衡は頼朝から
「京都にきんや馬を送るときは、オレが仲介してやろう」
という不躾な申し出を聞いており、心情的に鎌倉へは良い印象を持っておりません。

今までだって、頼朝に仲介してもらわなくても直接京都へ運んでいたのです。

仲介を頼むということは、当然、手数料が発生。
そして、それは奥州藤原氏が源氏に臣従することを意味するも同然でした。
当時の奥州は半ば独立国ですから、それを率いている身としては面白いワケがありません。

しかし秀衡はいったん譲歩し、鎌倉へ馬と金を送りました。

藤原秀衡/wikipediaより引用

むろん臣従はしたくありません。

そこへ「息子」だった義経が頼朝から追われて亡命してきたので、いよいよ「その時」だと考え義経をかくまったのです。

義経を旗頭とすれば、武家源氏の血筋として十分。
頼朝と対抗しようとしたのかもしれません。

しかし、栄華を極めた秀衡も病には勝てませんでした。
義経が奥州にたどり着いた1187年のうちに亡くなってしまうのです。

 

アイツは所詮よそ者じゃないか 先に討ち取ったれ!

跡を継いだのは次男の藤原泰衡やすひらです。
長男の国衡くにひらもいましたが、側室の生まれだったため正室から生まれた次男が優先されました。

一度は父親の方針通り義経を庇おうとした泰衡は、鎌倉からのプレッシャーに対し、徐々に耐え切れなくなっていきます。

そしてある日、こう言い出しました。

「父上は義経を助けろって言ってたけど、アイツは所詮よそ者じゃないか! アイツのせいでうちが滅びるぐらいなら、先に討ち取って頼朝の機嫌を取ったほうが良いに決まってる!」

我が身可愛さしか頭のないこの振る舞いに、藤原国衡と三男・藤原忠衡ただひらは唖然。

特に忠衡は
「いやいや、父上の遺言はきちんと守るべきでしょ!うちを信用して頼ってきたような人を討ち取るとかアンタ正気か! この親不孝者!!」
と猛反対します。
しかし、元々仲の悪い兄弟だったので話し合いでは到底解決できません。

泰衡は反対を押し切って義経を自害させ、その足で「もう義経はいないし、お前の居場所もねーから!」と忠衡まで討ち取ってしまうのでした。

滅茶苦茶にも程がありますね。

 

まわる~、ま~わる~よ、因果はまわる~

しかし、他人の命を巻き込んだ盛大な媚び媚び、頼朝には全く通用しませんでした。

「差し出せとは言ったけど殺して良いなんて言っとらんわ! お前ら全員責任取れ!!」

ちょっと前には「義経を討て!」と言っていたくせにひどい言いがかりですが、既にこのころ頼朝の目的は義経よりも奥州そのものですから、まぁ、そうなりましょう。

金や馬の産地であり、兵力も充分な奥州。
そこに藤原氏がいる限り、鎌倉に幕府を構えても背後を脅かされ続けます。

泰衡はこの態度にビックリ仰天。
媚びたつもりが逆効果になったというのだから、そりゃそうですよね。

攻めてきた鎌倉の大軍を福島県伊達地方(この戦いの恩賞でこの土地をもらったのが、あの伊達政宗のご先祖です)で、お兄さんの国衡が迎え撃ちますが、多勢に無勢。
国衡は父の遺言を守り、弟を裏切らないまま、義理堅く討ち死しました。

この立派なお兄ちゃんを見て、さすがの泰衡も奮い立つか――そう思ったら、さっさと世界遺産平泉を放棄してしまいます。

そして逃げた先から必死すぎる嘆願の手紙を送ります。

「いや、貴方が討てって言ってたから従ったのに何で討たれるんですかおかしいじゃないですか。でもこうなった以上は仕方ないから従います流罪になっても構いませんのでどうか命だけは!命だけはああああああ!!」
※超訳しすぎかと思ったら、まじでこれくらいの勢いで懇願している

が、もちろん頼朝は「ざけんな。そんなの手紙じゃなく、まずはツラを出せや」とマトモに取り合うはずがありません。

こりゃだめだと、泰衡は北へ北へと逃げていきました。
最後は渡島(北海道)を目指していたようです。

しかし、これまた「こいつの首持ってけば頼朝に取り立ててもらえるんじゃね?」と考えた部下によって殺されてしまうのでした。

 

泰衡=ジンギスカン説はちょっと無理あれど

自分と同じ考え方の人間に殺されるなんて、罰が当たったとしか言いようがありません。

泰衡を殺した河田次郎という人も、結局は頼朝に
「先祖代々仕えてきて恩があったくせに、裏切って助けてもらえるとか思ってんの?バカなの?」
という理由で斬罪に処されてしまいます。

一連の戦いで、泰衡が火をつけたおかげで平泉の中心施設は焼け、源氏平家と並ぶ奥州藤原氏はあっけなく滅亡しました。

以後、伊達政宗の時代まで、奥州藤原氏ほどの栄華を誇る人物は出てきておりません。

もし泰衡が遺言通り義経を旗頭にして、頼朝と正面衝突していたら鎌倉幕府はどうなっていたか?

考えると楽しい限りですが、実際は頼朝が勝っちゃうんでしょうね。

奥州藤原氏の初代・藤原清衡から始まった/wikipediaより引用

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
奥州藤原氏/wikipedia

 



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