源頼朝

近年では足利直義とも指摘される源頼朝肖像画/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

源頼朝が伊豆に流され鎌倉幕府を立ち上げるまでの生涯53年とは?

源氏と言えば、源頼朝――。

大河ドラマ『光る君へ』の話が進んでいけば源氏のイメージも変わるかもしれませんが、今はともかく『鎌倉殿の13人』における大泉洋さんの姿が印象的でしょう。

女性にだらしなく、兄弟でも容赦なく討ち取る姿は、決してクリーンとは言えない英雄像。

では史実ではどうだったか?

というと、父・源義朝平清盛に負けると約20年もの謹慎生活を送らされ、いざ平家討伐で立ち上がった緒戦でも負けたり、輝かしい経歴ばかりじゃありません。

いざ平家を倒してからも様々な争いが続きました。

一体、頼朝とはどんな人物だったのか、どんな事績があるのか?

建久10年(1199年)1月13日が命日となった、その生涯53年を振り返ってみましょう。

※以下は源義朝の生涯まとめ記事となります

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早い時期から「源氏の御曹司」だった源頼朝

源頼朝は久安三年(1147年)、源義朝の三男として生まれました。長男ではなかったんですね。

母は、熱田大宮司・藤原季範(すえのり)の娘である由良御前。

京都にいたであろう義朝と、熱田神宮=愛知県の人がどんな縁で結婚することになったのか。

ちょっと不思議になりますよね。

これは、季範が藤原南家の出身であること。さらに季範の母が、元々は熱田神宮の大宮司を務めていた尾張氏の出身ということが関係しております。

大宮司とその周辺にとって、京都、しかも南家ではあるものの藤原氏に対して「縁ができた」ことが政治的に大きいのですね。

そんなわけで、この頃の大宮司家の関係者は北面の武士になったり、あるいは後白河上皇の母・待賢門院や、姉の上西門院(統子内親王)に仕えたりということが多かったようです。

詳細は不明ながら、由良御前も上西門院の女房だったのではないか? とする説もあります。

熱田神宮本宮

由良御前と結婚した頃、義朝には既に長庶子・源義平がいました。

義朝は元々関東で育った人です。それが由良御前と結婚する前に、義平に関東を任せ、上京したといわれています。

おそらくは、結婚を通して当時の治天の君(政治を行う天皇や上皇のこと)・鳥羽上皇などに近づこうとしたのでしょう。

こう書くと何だか政治色が強く感じられますが、十年前後の夫婦関係で、頼朝を含めた3~4人の子供が生まれていますので、それなりに良好な関係だったと思われます。

後に頼朝も、奥州合戦の前や最中に由良御前の法要を営んでいますから、母に対する思慕の念も小さくなかったでしょうし。

そんなこんなで、母方の祖父である藤原季範の別邸(現・誓願寺)で頼朝は生誕。

幼少期のことは不明ながら、藤原氏の血を引く由良御前の息子ということで、早い時期から「源氏の御曹司」と見られていました。

 

女性に助けられがちなのは高身長・イケメンだから?

彼ら源氏の運気が上昇し始めたのは1156年。

父・義朝が保元の乱後白河天皇方につき、勝者の一員になると、その二年後に源頼朝は上西門院に仕えるようになります。親子揃って正式に朝臣となったわけです。

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また、平治元年(1159年)には、二条天皇の蔵人となりました。

蔵人は秘書のような仕事をする下級役人ですから、朝廷の内部にも関わり始めたとみていいでしょう。

ここでちょっと、源頼朝の容貌についてお話ししておきましょう。

京都の神護寺にある超有名な肖像画は、近年では別人説が有力になっています。

じゃあどんな顔なのか?

というと平治物語や同時代の人々が頼朝について記述していて、「どんな雰囲気の人だったのか」という点を推し量ることはできます。

大まかにまとめると、

「年齢よりは大人びて見える」

「顔は大きいが美形である」

という評価が共通しているようです。

また、頼朝が奉納したとされる甲冑から推測した身長は165cmほど。

当時の平均より大きい……というか、はるか後年の織田信長が168cmぐらいだったとされていますので、平安時代ではかなりデカイほうかと思われます。

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美形かつ高身長、さらには皇室の血を引く源氏の貴公子。

宮中ではさぞ評判が高かったことでしょう。

後述するように、頼朝はたびたび女性に助けられているのですが、日頃からいろんな意味で目をかけられていたからこそ……だったのかもしれません。

 

なぜ平家サイドの清盛・義母が助命に動いたか

源頼朝の初陣は、平治元年(1159年)の平治の乱でした。二条天皇に仕え始めてから半年ほど経った頃です。

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一時、義朝の協力者である藤原信頼が実権を握ったときは、従五位下・右兵衛権佐という官位を得ています。

位階としては高くないものの、これは兵衛府(ひょうえふ)という、天皇の親衛隊のような役所のNo.2にあたります。

乱の前から上西門院や二条天皇に仕えていた頼朝にとって、蔵人よりも武士らしく誇らしい仕事だと感じられたでしょう。

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しかし、平清盛が帰京すると状況は一転。義朝は敗れ、頼朝は京を脱出したものの、美濃で捕らわれて清盛の前に引き出されます。

当然斬られるところでしたが、ここで清盛の義母・池禅尼(いけのぜんに)が頼朝に味方しました。

「なんで平家側の人が頼朝に味方したの?」

「義理のカーチャンだからって、なんで清盛はあっさり言うことを聞いたの?」

そんな疑問が湧いた方もおられるでしょう。

歴史の授業などでは、意外とその理由って説明されないんですよね。

実はこのカーチャン、とても先見の明がある人でした。

 

清盛の政治感覚も当時としては妥当だった

池禅尼は保元の乱の際、崇徳上皇と後白河天皇のどちらかにつくか清盛が迷っていたところを、

「上皇様に勝ち目はない」

と言い、後者につくよう勧めたといわれています。

さらに、清盛にとっての異母弟である息子・頼盛には「必ず兄に従いなさい」と命じ、平家の分裂を防ぎました。

池禅尼は崇徳天皇の皇子・重仁親王の乳母だったのにもかかわらず、冷静に状況を見極めて結果を予測し、一族をまとめた……という、清盛以下平家一門にとっては、頭の上がらない相手だったわけです。

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また、源頼朝は上記の通り、以前から上西門院・二条天皇に仕えていた上、母方は熱田大神宮家の出です。

熱田神宮の御神体は三種の神器の一つ・草薙の剣の本体を祀っていますから、やはり皇室と非常に縁が深いということになります。

おおざっぱにまとめると、頼朝には自身の血を含め、二重三重に皇室との縁があったわけです。更には上西門院側からも助命嘆願があったとされています。

一方で清盛も政治感覚に優れた優秀な人物です。

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ここで意地を張れば、

・義母に逆らう→異母弟らを敵に回す

女院の嘆願をはねのける→皇室を敵に回す

となり、一族の結束も、皇室からの信用も失うことになる、と考えたのでしょう。

かくして清盛は、頼朝の処刑を取りやめ、伊豆への流罪としました。

この時点かつ中央政界においては正しい判断でした。

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