1月2日から3日にかけて行われる国民的スポーツ行事と言えば?
東京箱根間往復大学駅伝競走――いわゆる「箱根駅伝」ですね。
大手町から箱根の芦ノ湖まで100km以上の道のりを往復5人ずつの大学生ランナーたちが疾走。
・往路5区間(108.0km)
・復路5区間(109.9km)
という合計10区間(217.9km)の競争は、正月の風物詩と言ってもいいでしょう。
しかし、
【箱根駅伝の歴史(始まり)をご存知ですか?】
と問われたら「よぅ知らん」という方も多いのではないでしょうか。
そこで本稿では、箱根駅伝の優勝校と共にマトメてみました。
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原点にあったのはストックホルムの無念
箱根駅伝とは切っても来れない関係にある金栗四三。
大河ドラマ『いだてん』の主人公にもなった日本マラソン界・生みの親とも言える存在です。
明治45年(1912年)にスウェーデンで開催されたストックホルム五輪――。
日本中の期待を背負ってレースに参加した金栗四三は【途中棄権】という不名誉極まりない結果を残してしまいました。
スポーツ医学なんて概念すらない時代ですから、体調不良に陥り、レース中に倒れてしまったんですね(以下に詳細記事がございます)。
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マラソン競技中に失踪した金栗四三、ペトレ家に救助され都市伝説となる
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当時は、体重を軽くするため「水分補給を控える」という対策すらあった時代です。
金栗は、そんな迷信に疑問を感じ、水分・栄養分の摂取を重要視して、結果、五輪出場を果たせたのですが、それでもいざ本番となるとうまくいきませんでした。
それだけに大会直後の金栗は、無念極まりない思いを抱えておりました。
「終生の遺憾」として『生涯悔やみ続けることになる』と日記に書き記すほどの辛さだったのです。
また、スウェーデンの舗装道路を激走したことで、脚も痛めてしまいました。
金栗は、レース以前に「ハリマヤ足袋店」と協力して、「金栗足袋」の開発に力を注ぎました。
足袋でマラソンというと意外なようで、実は合理的なもの。
現在もスポーツ足袋があります。
昭和11年(1936年)のベルリン大会マラソンにおいて、アジア人初の金メダリストとなった孫 基禎(ソン ギジョン)選手も、この足袋を履いていました。

アジア人初の金メダリスト孫基禎/wikipediaより引用
「どうしたら日本も強くなれるのか?」
金栗は、東京高等師範学校での仲間だった野口源三郎、沢田英一らと、日本の陸上競技強化について語り合いました。
着想時はなんと「アメリカ横断」案も
話は少し変わりますが。
ジャンプの人気漫画『ジョジョの奇妙な冒険』で、19世紀末を舞台とした『Part7 スティール・ボール・ラン』というシリーズがあります。
人馬一体となってアメリカ横断を目指すレース。
さすがUSAと言わんばかりの壮大なスケールですが、これをもし人の脚力だけで行うとしたら何と思われますか?
そうです。走って横断するのです。
実は、金栗が最初に考えた【駅伝】の中にはアメリカ横断という構想までありました。
結果、東京―箱根間に落ち着いたのは、それなりの理由もあります。
「箱根の山は♪天下の険♪」
『箱根八里』で、そう歌われるほどの高低差だけでなく、歴史と由緒もある土地です。
そんな険しい道を駆け抜けてこそ選手育成が出来るのではないか?
と金栗らは考えたのでした。
「駅伝」は日本独自のもの
駅伝は、日本発祥のレースで、海外でもそのまま「Ekiden」と呼ばれます。
では金栗が考えた言葉なのか?
と言えばそんなことはありません。
元々は歴史用語で
・宿場毎に置かれた馬車や馬
・宿場町
・町から町へ馬で繋ぐシステムそのもの
を指しました。
要は、大手町~鶴見~戸塚~平塚~小田原~芦ノ湖というそれぞれの区間を宿場町に見立てて、各拠点をタスキでつないだんですね。
まさしく駅伝というレースにピッタリの名前でしょう。
駅伝は、現在、日本以外にも広がっていて、
シンガポール
ハワイ
グアム
オーストラリア
ニュージーランド
カナダ
ベルギー
【参照】シンガポールのミズノエキデン公式サイト(→link)
でも行われています。
ただし、日本で初めて行われた駅伝は、金栗らが立ち上げた箱根駅伝ではございません。
大正6年(1917年)に開催された「東海道駅伝徒歩競走」。
文字通り東海道五十三次を走るもので、明治天皇が京都から東京までやって来た道をなぞるものが実施されたのでした。
距離は500キロで区間は23。
金栗もこの大会に参加しており、そこから箱根駅伝の発想に至ったと思われます。
戦前の箱根駅伝
金栗らの尽力もあって大正9年(1920年)、第1回箱根駅伝がスタートしました。
当初の参加数はわずかに四校。
早稲田、慶応、明治、東京高等師範学校でした。
東京高等師範学校とは、教師を育成するために設立された学校で、現在は筑波大学になっています。
大河ドラマ『いだてん』では主要キャラの嘉納治五郎が学長を務め、金栗四三が入学する学校。
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箱根駅伝の全成績については後述しますが、創生期は早稲田と明治の優勝争い展開がほとんどでした。
かくして箱根駅伝を通じて五輪レベルの選手を育成する――そんな金栗のもくろみは的中します。
箱根駅伝の出場者だった南昇竜(ナム スンニョン)が、昭和11年(1936年)のベルリン大会で銅メダルを獲得したのです。
同大会の
5千メートル
1万メートル
で4位入賞を果たした村社講平(むらこそ こうへい)も、元を辿れば箱根駅伝第20回大会(1939年)で区間賞を獲得した人物でした。
金栗の狙いだった、世界に通じる選手の育成は着実に叶いつつありました。しかし……。
五輪ベルリン大会(1936年)のあと、日本は戦争の道を突き進みます。
陸上競技も当局の目をくぐりながら続けるしかなく、箱根駅伝もコースを変え、非常に状況の厳しい中で開催するほかありません。
ベルリン大会からほんの僅かの間に、状況は一気に悪化していたのですね。
極めつけは昭和15年(1940年)に開催予定だった日本初のオリンピック東京大会でしょう。
嘉納治五郎が命を賭して勝ち取った開催も遂には辞退されてしまいました。
この五輪を現在では「幻の東京五輪」とか「1940年東京オリンピック」と呼んでいます。
中止に追い込まれたのは、単純に戦争だけが影響だとも言い切れません。
詳細は以下の記事でご判断いただければと存じます。
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なぜ幻の東京五輪(1940年東京オリンピック)は中止に追い込まれた?
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戦時下において、スポーツ大会が中止される程度の話は、取るに足らなかったことかもしれません。
戦況不利な状況下では、戦場へ駆り出される者も少なくありません。事実、金栗の後輩にあたる後輩選手たちの間でも、戦場に向かう人々がおりました。
3度の区間賞に輝き、日本大学の四連覇に貢献した「山の神」こと鈴木房重は、終戦を目前とした昭和20年(1945年)6月、南シナ海で戦死を遂げています。
享年31。
戦後の復興、五輪への道として
昭和20年(1945年)の終戦後、日本には焼け野原と食糧難という戦争の傷跡が残されました。
その日を生きるだけでも精一杯の中、人々は希望を求め始めます。
落語、宝塚歌劇団、吉本興業……と、数多の娯楽が復活する、その一方で昭和22年(1947年)、ついに箱根駅伝も復活を遂げるのです。
しかし、当時は、戦死者や国土の荒廃により、各大学ではランナーが不足。
別競技の選手まで駆り出される、そんな状況下で優勝したのが明治大学でした。
こうした箱根駅伝出身者から多くのオリンピック選手が生まれ、昭和27年(1952年)の五輪ヘルシンキ大会には、日本チーム自身も五輪への復帰を果たします。
昭和28年(1953年)にはNHKラジオでの中継も始まりました。
箱根駅伝は、陸上競技に携わる人々だけではなく、国民的なスポーツイベントとして注目を集めるようになっていきます。
昭和37年(1956年)のオーストラリアで開かれたメルボルン大会では、箱根駅伝経験者の川島義明がマラソンで5位入賞を果たします。
そして昭和39年(1964年)の東京オリンピックの年。
中央大学が箱根駅伝6連覇を偉業を成し遂げました。
過去最高の連勝記録は中央大学の6連覇となります。
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