宮沢賢治

宮沢賢治「雨ニモマケズ」の詩が記されたメモ/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

宮沢賢治の意外すぎる経歴~実家はリッチで当人は感化されやすい性格

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最後の恋と雨ニモマケズ

昭和3年(1928年)6月、賢治は伊豆大島へ渡った。

岩手出身の伊藤七雄が伊豆大島で農学校を設立したいとして郷土の賢治を招いたのだ。

そこで賢治は七雄の妹チエと出会う。

七雄が「見合い」をしようとしたこともあって、賢治は「百姓」の妹として働くチエを気に入り、親友の藤原に「結婚するなら、あの女性だな」と告白した。

ところが同年8月、またも結核を発症。

その後は実家に戻り病床から、詩をつくり、肥料の相談にのった。

昭和6年(1931年)2月、病気が回復して、東北砕石工場の技師となり、石灰粉末の営業マンとして働いた。

旧東北砕石工場

あまりに意外な職場であるが、本人としても思うところがあったのか。

9月、出張先の東京でまたも病気が再発してしまい、花巻へ戻った賢治は遂に死を覚悟した。

この絶望的な状況下の11月3日、黒革の手帳に書かれたのが、いわゆる「雨ニモマケズ」だ。

雨ニモマケズ

風ニモマケズ

雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ

丈夫ナカラダヲモチ

慾ハナク

(中略)

東ニ病気ノコドモアレバ

行ッテ看病シテヤリ

西ニツカレタ母アレバ

行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ

南ニ死ニサウナ人アレバ

行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ

北ニケンクヮヤソショウガアレバ

ツマラナイカラヤメロトイヒ

ヒドリノトキハナミダヲナガシ

サムサノナツハオロオロアルキ

ミンナニデクノボートヨバレ

ホメラレモセズ

クニモサレズ

サウイフモノニ

ワタシハナリタイ

(後略)

これは詩なのか、メモなのか、本人がどう思っていたかは不明なれど、心を打つ「文学」最高峰の作品であることは疑いがない。

 

最期は東北の豊穣な光に包まれて

賢治の闘病はその後も続き、昭和8年(1933年)9月20日に肺炎を再発すると、翌21日午後1時30分に亡くなった。37歳。

死の間際に呼んだ絶歌が残されていた。

方十里 稗貫のみかも 稲熟れて み祭三日 そらはれわたる

病(いたつき)の ゆゑにもくちん いのちなり みのりのに棄てば うれしからまし

東北の自然を愛し、民を愛し、一方で自分の才能を愛しながら、リア充な境遇を憎んだ賢治。

東北の民が自然に打ちのめされた「凶作の秋」――このとき記した「雨ニモマケズ」は賢治の背負い込んだ東北のすべてではない。

賢治が亡くなった年は一転して豊作だった。

豊穣の東北を讃える絶歌を残した賢治が、最後に見た故郷イーハトーブの姿は黄金に光り輝いていたのだ。

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恵美嘉樹・文

【参考】
青空文庫(→link
宮澤賢治生誕120年記念サイト(→link
重松清/小松健一/澤口たまみ『宮澤賢治―雨ニモマケズという祈り (とんぼの本)』(→amazon)

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