宮沢賢治

宮沢賢治/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

宮沢賢治の意外すぎる経歴~実家はリッチで当人は感化されやすい性格だった

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イギリス海岸

このころ雑誌『愛国婦人』に童話を投稿し、掲載された。

『雪渡り』(青空文庫→link)であり、このとき貰った原稿料5円は、はからずも最初で最後の原稿料となっている。

また、賢治は女学校で、藤原と一緒に「レコードコンサート」を開き、そこで恋も芽生えた。

花城小学校で代用教員をしていた大畠ヤスである。

彼女との恋愛に並行して初の詩集『春と修羅』の掲載作品が作られ、また、この頃に有名な『イギリス海岸』も”誕生”している。

以下がそうである。

夏休みの十五日の農場実習の間に、私どもがイギリス海岸とあだ名をつけて、二日か三日ごと、仕事が一きりつくたびに、よく遊びに行った処ところがありました。

それは本たうは海岸ではなくて、いかにも海岸の風をした川の岸です。

北上きたかみ川の西岸でした。

東の仙人せんにん峠から、遠野を通り土沢を過ぎ、北上山地を横截よこぎって来る冷たい猿さるヶ石いし川の、北上川への落合から、少し下流の西岸でした。

イギリス海岸には、青白い凝灰質の泥岩が、川に沿ってずゐぶん広く露出し、その南のはじに立ちますと、北のはづれに居る人は、小指の先よりもっと小さく見えました。

『イギリス海岸』より(→青空文庫

イギリス海岸

農学校の校歌をバイオリン弾きの友人と共に作るなど、リア充の限りを尽くした賢治に、最悪のことが起きる。

結核を患っていた最愛の妹トシが大正11年(1922年)になくなったのだ。

まだ24歳の若さである。

賢治はこの時の思いを『永訣の朝(→青空文庫)』としてよんでいる。

あんなおそろしいみだれたそらから

このうつくしい雪がきたのだ

(うまれでくるたて
こんどはこたにわりやのごとばかりで
くるしまなあよにうまれてくる)

おまへがたべるこのふたわんのゆきに

わたくしはいまこころからいのる

どうかこれが天上のアイスクリームになって

おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに

わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

シスコン気味だった賢治の落ち込みは相当なもので、これを機に、恋人の大畠ヤスとも離別。

その流れを童話化したのが『シグナルとシグナレス(→青空文庫)』である。

 


注文の少なかった『注文の多い料理店』

大正13年(1924年)4月20日、初めての著作『心象スケッチ 春と修羅(→青空文庫)』が出版された。

事実上の自費出版である。

更にこの年の12月1日には、童話集『注文の多い料理店』を刊行。

この出版のスポンサーは大学(高等農林)の後輩・及川四郎である。

及川は出版社「光源社」を設立して、この童話集を世に送り出した。

実は、この童話集はシリーズ『イーハトブ』の第一作目だったが、一冊1円60銭(現代なら絵本で5,000円ぐらいの感覚)もうする高級品だったので売れずに、シリーズは1巻で完結となってしまったのだ。

これまた賢治とその周辺が、お坊ちゃまだらけの「殿様商売」であることがよくわかる。

農学校に通う生徒たちの家は貧しく、リア充の自分自身にも苦しくなったのだろう。

本当の百姓になるとして、大正15年(1926年)29歳で花巻農学校を退職した。

宮沢賢治童話村

 


苦しい庶民となり滲み出る喜び

賢治は、妹トシが結核のため離れとして使っていた宮沢家の別宅で、独居自炊の生活をはじめた。

農業をしながら文学をするという「理想」を追求。

『農民芸術概論綱要(→青空文庫)』は、以下のようなフレーズから始まる。

おれたちはみな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい

もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい

われらの古い師父たちの中にはさういふ人も応々あった

近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい

世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない

リッチだった実家暮らしを離れ、ようやく苦しい庶民と同じ場所に立ったことへの「喜び」が滲み出ている……。

しかし、一度味わった文化的リア充生活を簡単に捨てることなどできやしない。

30歳の誕生日から4日前となる8月23日、賢治は「羅須地人(らすちじん)協会」を設立。

農業技術の普及のほか、コンサートやオーケストラなどの文化活動を積極的に行った。

年末にはセロを習うために上京して、同時にオルガンやエスペラント語も習っているほど。

大正当時は、東北から東京へ遊びに行ける人など、ほとんど存在しなかった時代です。

これで「百姓」を自称していたのだから、本物の百姓たちは賢治らをどう思っていたことか。

実際に治安当局に目をつけられ、オーケストラは間もなく解散させられている。

文学を成すには、いずれにせよ教養が必要となる。

こうした関心が『セロ弾きのゴーシュ(→青空文庫)』などの名作を産んだのだろう。

賢治は耕すより、やはり「先生」であった。

持ち前の農業とくに肥料の技術を周辺の百姓に教えていった。

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