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【箱根駅伝の歴史】
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戦前の箱根駅伝
金栗らの尽力もあって大正9年(1920年)、第1回箱根駅伝がスタートしました。
当初の参加数はわずかに四校。
早稲田、慶応、明治、東京高等師範学校でした。
東京高等師範学校とは、教師を育成するために設立された学校で、現在は筑波大学になっています。
大河ドラマ『いだてん』では主要キャラの嘉納治五郎が学長を務め、金栗四三が入学する学校。
東京高等師範学校(東京高師)――嘉納治五郎が育てた日本スポーツの礎
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箱根駅伝の全成績については後述しますが、創生期は早稲田と明治の優勝争い展開がほとんどでした。
かくして箱根駅伝を通じて五輪レベルの選手を育成する――そんな金栗のもくろみは的中します。
箱根駅伝の出場者だった南昇竜(ナム スンニョン)が、昭和11年(1936年)のベルリン大会で銅メダルを獲得したのです。
同大会の
5千メートル
1万メートル
で4位入賞を果たした村社講平(むらこそ こうへい)も、元を辿れば箱根駅伝第20回大会(1939年)で区間賞を獲得した人物でした。
金栗の狙いだった、世界に通じる選手の育成は着実に叶いつつありました。しかし……。
五輪ベルリン大会(1936年)のあと、日本は戦争の道を突き進みます。
陸上競技も当局の目をくぐりながら続けるしかなく、箱根駅伝もコースを変え、非常に状況の厳しい中で開催するほかありません。
ベルリン大会からほんの僅かの間に、状況は一気に悪化していたのですね。
極めつけは昭和15年(1940年)に開催予定だった日本初のオリンピック東京大会でしょう。
嘉納治五郎が命を賭して勝ち取った開催も遂には辞退されてしまいました。
この五輪を現在では「幻の東京五輪」とか「1940年東京オリンピック」と呼んでいます。
中止に追い込まれたのは、単純に戦争だけが影響だとも言い切れません。
詳細は以下の記事でご判断いただければと存じます。
幻の東京五輪(1940年東京オリンピック)が中止になったのは本当に戦争のせい?
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戦時下において、スポーツ大会が中止される程度の話は、取るに足らなかったことかもしれません。
戦況不利な状況下では、戦場へ駆り出される者も少なくありません。事実、金栗の後輩にあたる後輩選手たちの間でも、戦場に向かう人々がおりました。
3度の区間賞に輝き、日本大学の四連覇に貢献した「山の神」こと鈴木房重は、終戦を目前とした昭和20年(1945年)6月、南シナ海で戦死を遂げています。
享年31。
戦後の復興、五輪への道として
昭和20年(1945年)の終戦後、日本には焼け野原と食糧難という戦争の傷跡が残されました。
その日を生きるだけでも精一杯の中、人々は希望を求め始めます。
落語、宝塚歌劇団、吉本興業……と、数多の娯楽が復活する、その一方で昭和22年(1947年)、ついに箱根駅伝も復活を遂げるのです。
しかし、当時は、戦死者や国土の荒廃により、各大学ではランナーが不足。
別競技の選手まで駆り出される、そんな状況下で優勝したのが明治大学でした。
こうした箱根駅伝出身者から多くのオリンピック選手が生まれ、昭和27年(1952年)の五輪ヘルシンキ大会には、日本チーム自身も五輪への復帰を果たします。
昭和28年(1953年)にはNHKラジオでの中継も始まりました。
箱根駅伝は、陸上競技に携わる人々だけではなく、国民的なスポーツイベントとして注目を集めるようになっていきます。
昭和37年(1956年)のオーストラリアで開かれたメルボルン大会では、箱根駅伝経験者の川島義明がマラソンで5位入賞を果たします。
そして昭和39年(1964年)の東京オリンピックの年。
中央大学が箱根駅伝6連覇を偉業を成し遂げました。
過去最高の連勝記録は中央大学の6連覇となります。
「箱根駅伝」はお正月の風物詩に
箱根駅伝の大きな転換点――。
それは昭和62年(1987年)に始まったテレビの生中継です。
第69回箱根駅伝の中継で日本テレビが取り組み遂に実現しました。
山岳地に受診基地を設置し、ヘリコプターを飛ばす。
そんな技術的困難を乗り越え、当初は18.2%だった視聴率も平成15年(2003年)には30%を突破。
放映時間が14時間を超えながらこの数字を叩き出したのですから、モンスター扱いをされることは当然です。
となれば大学側にとっても宣伝のチャンスとなります。
特に昨今は少子化が進み、全国の大学は学生確保が大きな課題となっています。
箱根駅伝という華やかな舞台で成果を挙げれば、その達成も見込める。
商業主義に走る中で、海外からの留学生を選抜するチームも増えてゆきました。
箱根駅伝は、テレビ中継を契機にガラリと姿を変えたのです。皮肉にも金栗の初志とは異なる方向へと向かう道となってしまいました。
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