と聞くと、おそらく大半の方が「電車」か「車」とお答えされるでしょう。
しかし、かつての日本では、今よりずっと馴染みが深く、活躍していたのが「船」。
明治四十年(1908年)3月7日は、青函連絡船が運航を始めた日です。
”連絡”と聞くと通信手段のような感じもしますが、ちょっと違います。
昭和六十三年(1988年)まで運行していましたので、近隣にお住まいの方は、覚えていらっしゃるかもしれませんね。
青森と函館を結ぶ――つまりは本州と北海道を繋ぐ、非常に重要な船でした。
本稿では、その他の連絡船の歴史も併せて見て参りましょう。
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車両ごと船で運んで手間を省こう!
現在は青函トンネルで鉄道が繋がっている青森県と北海道。
それ以前の交通手段は船でした。
明治四十年のこの日に始まったのは、青森側の駅と北海道側の駅とを結ぶ「乗り継ぎ船」としての意味合いです。
しかし、鉄道での旅客や貨物輸送で一般化すると「どうにかして、この間も線路で繋げないだろうか」という考えが出てきます。
と言っても18km以上ある津軽海峡の上に線路を敷くのは、技術的に困難なことでした。
そこで「車両ごと船で運んで、貨物の積み替えの手間を省こう」ということになります。この発想、なにげにスゴイですよね。
かくして、電車を乗せることができるデカイ船が作られ、貨物輸送の効率が飛躍的に上がります。
旅客利用も増え、本州~北海道間を走る特急列車や夜行列車も、青函連絡船との接続を主眼としてダイヤが組まれていました。
その際のものと思われる案内放送がコチラ(リンクをクリックすると音声データへ飛びます)。
1988年のものなので割とクリアに聞けますよ。
ちなみに、お客さんは電車にそのまま乗って船内には入りません。船の客室へ移動して海を渡ります。
石川啄木の和歌に「ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく」というものがありますが、まさにそんな感じの雰囲気が漂っています。
戦時中や昭和二十九年(1954年)の【洞爺丸台風】など、他の航路同様にさまざまな苦難に見舞われましたが、
戦後も青函連絡船は長く愛されました。
最盛期には一日30往復する日も
昭和四十七年(1972年)には、一日30往復する日もあったそうです。
現在の青森~函館間のフェリーは16便(片道8便)ですから、2倍近くの船が行き来していたことになります。
夜中も運行できるので、夜行列車や夜行バスのように、時間を有効に使えることも大きな魅力ですね。現在の青森~函館間航路も、深夜2時・4時半発の便があります。
おそらく青函連絡船が運行していた頃も似たようなダイヤがあったことでしょう。
それでも最盛期は乗りきれないこともあり、乗り換える乗客は全力ダッシュしていたとか。現在の鉄道でもそこかしこで見られる光景ですね。
しかし、同じ頃から少しずつ飛行機の運賃が下がり始めたことや、景気の悪化、いわゆる「国鉄離れ」などの要因で、青函連絡船の利用客も減っていきます。
最終的には、昭和六十三年の青函トンネル開通を節目として営業を終えました。
時代の流れを感じるというか、お役目を果たしたという感じがしますね。
なお、廃止が決まってからの一年間は「お別れ」のためにやってくる乗客も多く、それまで乗ったことがなかった人たちも訪れたそうです。
「いつか乗ってみたいと思っていたら、廃止になるだって!?」と慌てた人が多かったのかもしれません。
最近は夜行列車や特急などの入れ替わりも激しいですし、そういうときも似たような経緯で乗客が増えますもんね。
例年であれば閑散期の1~3月も、廃止直前の年は臨時便を出すほどの盛況ぶりだったそうです。
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