日米修好通商条約(外務省外交史料館蔵)/photo by World Imaging wikipediaより引用

明治・大正・昭和

日米修好通商条約で開港した 横浜 長崎 神戸 函館 新潟 下田の状況を振り返る

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横浜・長崎の開港
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函館・新潟

上記三ヶ所とともに開港されることになりましたが、他と比べてこの時代には貿易が盛んになりませんでした。

両方とも、開港するかしないかという時期に戊辰戦争に巻き込まれたことが大きいかと思われます。戦争やってるところに貿易船は寄り付けませんものね。

また、横浜や長崎と比べて地形に難があり、整備に時間がかかったことも理由の一つでしょう。

函館は日露戦争で勝って樺太近辺への漁船が出るようになってから、新潟は日本が満州に進出した昭和初期から、それぞれ大きく発展していくことになります。

 


下田

ついでに、上記の五港に先駆けて開港されていた、下田も見ておきましょう。

実は下田は、他の港が開かれた後、閉港されています。

というのも、下田の人々が好奇心旺盛すぎて、やってきたアメリカ人たちと身振り手振りで話して仲良くなってしまったため、役人が困ってしまったのです。

まだまだ攘夷派がどこにいるかもしれない状態で、何かあってはそれこそ国際問題。また、幕府が許していないのに勝手に商売を始められても大問題です。

アメリカ人たちはおみやげとして日本の美術品や日用品などを買い求めましたが、直接買うことはまだ許されておらず、役人を通してしかやりとりできませんでした。

これも、役人の知らないところで商売を広げられては困るからです。

実際に、アメリカ人と仲良くなってボタンをもらった人などもいたそうなので、あと少し対応が遅れていれば、密貿易の拠点にでもなってしまっていたかもしれません。

ペリー軍隊分列式の図/wikipediaより引用

そんなわけで、下田は正式な開国が決まるまでの暫定的な交渉場所という扱いでした。

そのため、他の場所が開港されて半年後、入れ替わりに閉じられたのです。

今はいずれも観光地となっていますが、もし開港されたのが別の場所だったら、これらの町も違った道を歩んでいたのでしょうね。

その後の諸々を考えると、開港は国が開かれただけでなく、この五つの都市の歴史が変わった出来事だったのかもしれません。


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長月 七紀・記

【参考】
タイムスリップよこはま(→link
はまれぽ.com(→link
あっ!とながさき(→link
国宝大浦天主堂(→link
長崎から世界遺産を(→link
国史大辞典
ベルナール・プティジャン/wikipedia
下田市/wikipedia
函館市旧イギリス領事館(→link
日米修好通商条約/wikipedia
日米和親条約/wikipedia
横浜港/wikipedia
横浜税関の歴史/横浜税関

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