源義経

源義経/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

戦の天才だった源義経~自ら破滅の道を突き進み兄に追い込まれた31年の生涯

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で菅田将暉さん演じる源義経は、登場時点から大きな話題となりました。

兄・源頼朝に加勢するため向かった富士山が見える野原で、出会った野武士をいきなり騙し討ち。

SNSでも「やばい義経が来たw」とざわついていたかと思ったら、実際、一ノ谷の戦いでも徹底的に平家を欺き、戦いの前には1ミリの倫理すらない様子をうかがわせ、しまいには壇ノ浦の戦いで幼い天皇を入水自殺へ追い込んでいた。

一方で自分の死の間際には、冷静に周囲を分析し、相変わらず天賦の才に恵まれた軍略を披露する――。

確かに義経は、史実においても天才であり、同時に常識から逸脱したヤバい人だったかもしれません。

『なぜ、そこでそうなる?』という場面が何度かあり、特に頼朝が信頼する梶原景時(劇中では中村獅童さん)とは何度か揉めていて、最終的には自らが破滅の道を突き進んでしまうのです。

いったい源義経とは何なのか。

文治5年(1189年)閏4月30日が命日となる義経、史実の生涯を振り返ってみましょう。

源義経/wikipediaより引用

 


平治の乱があった年に生まれる

まず、最初に断っておかねばならないことがあります。

今なお日本史でトップクラスの人気を誇る義経ですが、史料はかなり少ないです。

登場するのは、晩年にあたるほんの数年。

それも『平家物語』や『義経記』などの創作物が中心のため、どこまで事実なのか判然としない部分が多々あります。

つまりは、今後、新たな発見の余地が残されている人物であり、通説が覆される可能性も十分にありますが、ともかくそれでは前に進めませんので、「こまけえこたあいいんだよ」の精神でお話を進めていきます。

えさし藤原の郷にて再現された義経街仏堂

源義経は平治元年(1159年)、平治の乱があった年に生まれました。

平治の乱は年末の話(新暦では年明け)なので、当時の義経はおそらく生後数ヶ月。幼名は牛若丸といいました。

源頼朝や源範頼と比べて広く知られているのは、やはり創作の多さと判官贔屓によるものでしょう。

母の常盤(ときわ)は、近衛天皇の中宮だった九条院(藤原呈子)の雑仕(身分の低い召使い)だったといわれています。

義経の父・源義朝とは、ドコで出会ったのか不明。

常盤が身ごもったと思われる時期は保元の乱と平治の乱の間で、義朝もアレコレ忙しかったはずです。

ただ、両者の間には、義経の他にも二人の息子がいるので、それ以前から懇意にしており、お気に入りだったのでしょう。

当時の価値観や、常盤の雑仕という身分から考えると、その辺で顔を見て気に入った……なんて可能性もありそうです。

少女マンガにでもなりそうなシチュエーションですね。

 


「将来出家するなら命だけは助けよう」

平治の乱で義朝が敗死すると、常盤たちも窮地に晒されました。

常盤は義経ら幼い息子たちを連れて逃げましたが、平家側の追っ手に捕らわれてしまいます。

同じく捕縛された頼朝は、この時点で元服・初陣を済ませていました。

斬首にされる寸前で、清盛の義母・池禅尼の決定で伊豆への流罪で済んでいます。詳細は、頼朝の記事を御覧ください。

源頼朝
源頼朝が伊豆に流され鎌倉幕府を立ち上げるまでの生涯53年とは?

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一方、義経たち三人は全員、年齢がひとケタ代だったため、

「将来出家するなら命だけは助けよう」

ということになりました。そして全員、別々のお寺に預けられます。

義経は京都の北にある鞍馬寺に預けられ、仏道修行に入りました。

「夜は天狗に武術を教わっていた」なんて話もあり、いかにも平安時代の話という感じがしますね。

京都・鞍馬寺の山門

そして思春期頃に突如出奔し、自ら元服して「九郎義経」を名乗ります。

「九郎」は義朝の九男であることから。「義」は源氏の通字からきていると思われますが、「経」の字だけ由来がよくわからないところです。

「経」には経典や書物に関する意味が多いので、ただ単にお寺にいたから仏教に関係するような字を選んだのか、他の理由があったのか……。

ちなみに「首をくくる」という意味もあるそうです。こわっ。

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