甄夫人像/wikipediaより引用

三国志女性列伝

曹丕美貌の妻にして曹叡の母・文昭皇后甄氏の不可解な死

幼いころから聡明で美しかった皇后(しんこうごう)。

コーエーテクモゲームスの『真・三国無双』シリーズでは、甄姫として2001年の『2』に初参戦。

セクシーな衣装と笛を使うキャラクターとして登場し、夫の曹丕(そうひ)と協力して戦います。

 

その後も多くのゲームに登場し、知名度も高い女性ですが……そんな身分もある女性の死因がハッキリしないうえに、「夫の曹丕に殺されている」のですから恐ろしい話ではありませんか?

そもそも甄皇后は袁紹の子・袁煕(えんき)の妻でした。

しかし、袁紹が【官渡の戦い】で敗北したため危難が迫り、建安9年(204年)、彼女が潜む鄴(ぎょう)の地も、曹操の手に落ちました。

そこで彼女を見つけたのが曹操の嫡男である曹丕(そうひ)です。

甄皇后の美貌に惹かれた曹丕は彼女を妻とし、後の魏明帝・曹叡(そうえい)を産みました。

そして彼女は後に文昭皇后甄氏(ぶんしょうこうごうしんし)と呼ばれることに――。

結果だけ見れば皇帝の子を送り出し、シンデレラストーリーかのようにも思えるのですが、夫・曹丕に死を賜っているのは前述の通り。

いったい彼女はなぜ死なねばならなかったのか?

今なお謎多き三国志ミステリの一つを考えてみます。

 

甄皇后 謎の死

太子・曹叡の母である甄皇后。

幼い頃から聡明で、謙虚で、控えめで、美貌もあった。そんな彼女がなぜ死んだのか?

被害者も加害者も明らか。

加害者:曹丕
被害者:甄皇后

されど動機がわからないから三国志ファンを悩ませ、特に陳寿の記述がそっけないため、後世の人間は「異議あり!」とつきつけてきました。

例えば裴松之はこう考えました。

裴松之

死去についての記述があまりにもそっけないのはなぜか?

陳寿が嘘をついているからです。

魏がこれを大罪であるとすれば、隠蔽することでしょう。些細なことだと思えば、美辞麗句で飾り立てて誤魔化す。

この場合は後者……この記述には嘘がある!

裴松之がこのように指摘すると、後世の人々がどんどんと話を膨らませてゆきます。

推理①

郭皇后による女のバトルです。

寵愛を争い、相手の悪口を吹き込んだ。信じ込んだ曹丕が惨殺したんですね。

よくある女の嫉妬ですよ。

推理②

嫉妬は嫉妬でも、この詩をご覧ください。

曹植の『洛神賦』……曹植は義理の姉に恋心を抱き、相手も心惹かれたんですね。

曹丕からすれば、これは許せないわけです。

推理③

口封じではありませんか?

曹叡の生年はハッキリしていません。つまり、甄皇后の前夫・袁煕との子かもしれない。

そのことを知る母である甄皇后は、死なねばならなかったのです……。

いずれも興味深いですね。

 

曹丕の殺害動機は外戚排除か

こうした先人の推察を読み解くうちに、私なりにひとつの説を推理しました。

こちらです。

筆者なりの推論

曹丕は後漢の外戚政治を問題視していました。

この問題解決はカンタン。最初から排除しておけば起こりません。

つまり、太子の生母を殺せばいい。

そして皇后には、バックボーンの薄い(政治力の弱い)一族の者を選ぶ。

随分と殺伐とした推理と思われるかもしれません。

我ながら書いている時点で気分が悪くなってしまいましたが、もちろん当てずっぽうな妄想でもなく、根拠の一つとして注目したのが曹丕の詔です。

彼は以下のような【外戚政治根絶宣言】出しておりました。

曹丕の詔

家臣の皆さん、政治のことを太后に相談してはいけません。

皇后の一族を、政治的な要職につけてはいけません。

天下一丸となって、外戚政治を根絶しましょう!

外戚の影響力はどんな王朝にも見られること。ときに王の政治を圧する……にしても、さすがに殺すのはやりすぎではないか?

そんな指摘もわかりますが、中国史においての実例は少なくありません。

 

外戚政治、合理的な排除手段の例

外戚政治を排除するためにも、太子、つまり未来の皇帝の母を殺しておく――。

嫌気がさしてくる手段ですが、その実例を見てみましょう。

漢・武帝

鉤弋夫人こうよくふじんこと趙婕妤ちょうしょうよ(昭帝の母)に死を賜る

武帝には、様々な家庭的な不幸がありました。

巫蠱ふこの獄」により、戾太子れいたいし劉拠りゅうきょとその一族を冤罪で処刑してしまったのです。

太子亡き後、残された末子はまだ幼い。幼帝が即位し、若い母である太后がいるとなると、呂后(漢高祖劉邦の后・呂雉りょち)のような政治的混乱が起こりかねない。

そう警戒し、死を賜りました。

呉・孫権

潘淑はんしゅく(太子・孫亮の母)、殺害される

罪人の娘であった潘皇后は、その美貌から孫権の寵愛を受け、後の呉の皇帝・孫亮そんりょうを生みました。

しかし、彼女は孫権の看病に疲れて寝込んでいたところを、殺されてしまいます。

性格的に問題があり、恨みをかっていた。そんな動機説明がありますが……。

彼女は孫権の夫人の中でも最年少。呂后の統治について家臣に尋ね、政治参加への意欲を見せていたのです。

南宋・胡三省は「幼帝即位後、外戚政治が起こることを危惧した家臣による暗殺だ」という説を提唱しています。

呂后による政治研究は、確かに危険です……。

北魏・道武帝

宣穆劉皇后せんぼくりゅうこうごう(明元帝の母)、死を賜る

このとき、太子とされた明元帝は「子が偉くなると母が死ぬのか……」と嘆きに嘆いたのですが。

北魏・明元帝

明元密杜皇后(太武帝の母)、死を賜る

「大局を顧みるため」と、息子に対しても同じことをしました。

いかがでしょう。

トロッコ問題じみた思考回路ですが、ここまで実例があるとやはり甄皇后の死因として「外戚の排除」という問題がありえるのではないでしょうか。

それに曹丕には動機もあります。

 

卞皇后べんこうごうの言葉には逆らえぬ

曹丕の生母にして、曹操の妻であった武宣皇后卞氏ぶせんこうごうべんし

曹操は、彼なりの理由があって彼女を正妻にしたとも考えられます。

最初の正妻・丁氏は、親族単位でつきあいのあった女性でした。そして彼女との離婚後、謙虚で聡明、かつ歌妓出身で「有力な後ろ盾のない卞氏」を選んでいるのです。

万事控えめで、そのことが曹操を引き付けていた卞氏。そんな彼女も、強く意見を主張したことがあります。

曹丕と曹植が立太子問題で対立した際、曹植を殺さないでと身を挺すようにかばったのです。

邪推であると前置きした上で言いますが、これには曹丕が『母さえいなければ、曹植一派を根絶やしにできた……』と考えてしまった可能性は否めないでしょう。

実際、曹丕の怨恨に関係なく、この後継者問題はやはり禍根を残しております。

曹植本人は命を奪われなかったものの、彼を推薦した家臣には犠牲者が多数出たのです。

犠牲者数だけで考えれば、やはり母なり妻なりを黙らせることは効率がよい――それは否定できないでしょう。

では、こうしたシステムエラーを排除するのであれば、どうすればいよいのか?

曹丕の父・曹操が、実例を示しております。

 

悪いのはシステム? 人そのもの?

かつて十常侍はじめ宦官に手を焼いた何進は、董卓や丁原を呼び寄せ、圧力をかけた上で抹殺することを主張しました。

それが実行に移されると、曹操はシラケきってこう反対しました。

「バカじゃねえの。宦官は必要悪だろ。バグを起こしている奴数名を始末すればいいだけ。こんな大袈裟なことをして、システムそのものを打ち壊す必要あるのかよ」

「お前がそういうのって、結局は宦官の孫だからだよな」

「いやいや、そういうことじゃないんだってば」

そんな冷たい反応を受け、結局は止めきれなかった――曹操には苦い経験があります。

その後、何進は殺害され、董卓が後漢に決定的な打撃を与えてしまいました。

曹操の思考回路であれば、こういう外戚政治のスマートな解決法は無意味だとシラケってもおかしくない。

実際に、無意味でしたから。

 

外戚政治は終わらなかった

拓跋氏たくばつしの北魏は「太子の母殺害」をシステム化しました。

しかし「外戚政治おしまい! やったね!!」とはなりませんでした。

太武帝はこう考えました。

「生母は知らないが、乳母はとても素晴らしい女性。彼女の意見を尊重しよう!」

彼は乳母の竇氏とうしを惠太后としたのです。

さらに、太武帝の孫・文成帝も、乳母を猛烈プッシュし、常太后としました。

この乳母たちは罪人の一族として宮中にいたため、生母を殺した結果、罪人の血縁者が権力を持つという、倒錯した状況をもたらします。

ただ、意外なハッピーエンドともいえる状況になりまして。文成帝は、女性による政治は悪くないと思ったのか、自らの太子の母を手にかけることはしませんでした。

幼い太子を補佐した彼女は、文成文明皇后として統治を行います。太子に代わり、皇后が統治を行う「垂簾聴政すいれんちょうせい」の中でも成功例とされております。

ちなみにドラマ『王女未央-BIOU-』のヒロインは彼女。

ドラマの誇張だけではなく、史実でも功績を残しており「彼女のようになりたい!」というロールモデルともされました。

※『王女未央-BIOU-』はアマゾンプライムで無料視聴できます(→amazon

後の歴史家は、このことを鮮卑ルーツだからと罵ってはおりますが。

「漢じゃないとダメだね。野蛮人はこういうゲスの極みをするから問題外」というのはただの偏見であると現代人ならば理解できましょう。

前述の通り、拓跋氏が参照にする前、実例を最初に作ったのは漢・武帝です。

女性の政治は悪しき例をクローズアップされがちですが、成功例もあります。

外戚や宦官そのものが悪いのか?

それとも、人が悪いのか?

魏晋南北朝の歴史を見ていると、複雑なものが見えてきます。

歴史から学べること。

それは嫌すぎる動機での幼子の母殺害事例です。

曹丕の甄皇后殺害動機はタイムマシンでも発明して、本人に聞かない限りわかりません。

ただ、こういう可能性はあり、他の実例もある。このことは興味深いのではないかと思うのです。

むろん動機はどうあれ、曹丕の悪事を理解することはできませんが……。

文:小檜山青
絵:小久ヒロ

【参考文献】
『中国儒教社会に挑んだ女性たち (あじあブックス)』(→amazon
『正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫)』(→amazon
『三国志事典(大修館書店)』(→amazon

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