文昭皇后甄氏

甄夫人像/wikipediaより引用

三国志女性列伝

美貌で知られる文昭皇后甄氏はなぜ夫の曹丕から死を命じられたか 謎多き曹叡の母

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外戚政治、合理的な排除手段の例

外戚政治を排除するためにも、太子、つまり未来の皇帝の母を殺しておく――。

嫌気がさしてくる手段ですが、その実例を見てみましょう。

漢・武帝

鉤弋夫人こうよくふじんこと趙婕妤ちょうしょうよ(昭帝の母)に死を賜る

武帝には、様々な家庭的な不幸がありました。

巫蠱ふこの獄」により、戾太子れいたいし劉拠りゅうきょとその一族を冤罪で処刑してしまったのです。

太子亡き後、残された末子はまだ幼い。幼帝が即位し、若い母である太后がいるとなると、呂后(漢高祖劉邦の后・呂雉りょち)のような政治的混乱が起こりかねない。

そう警戒し、死を賜りました。

呉・孫権

潘淑はんしゅく(太子・孫亮の母)、殺害される

罪人の娘であった潘皇后は、その美貌から孫権の寵愛を受け、後の呉の皇帝・孫亮そんりょうを生みました。

しかし、彼女は孫権の看病に疲れて寝込んでいたところを、殺されてしまいます。

性格的に問題があり、恨みをかっていた。そんな動機説明がありますが……。

彼女は孫権の夫人の中でも最年少。呂后の統治について家臣に尋ね、政治参加への意欲を見せていたのです。

南宋・胡三省は「幼帝即位後、外戚政治が起こることを危惧した家臣による暗殺だ」という説を提唱しています。

呂后による政治研究は、確かに危険です……。

北魏・道武帝

宣穆劉皇后せんぼくりゅうこうごう(明元帝の母)、死を賜る

このとき、太子とされた明元帝は「子が偉くなると母が死ぬのか……」と嘆きに嘆いたのですが。

北魏・明元帝

明元密杜皇后(太武帝の母)、死を賜る

「大局を顧みるため」と、息子に対しても同じことをしました。

いかがでしょう。

トロッコ問題じみた思考回路ですが、ここまで実例があるとやはり甄皇后の死因として「外戚の排除」という問題がありえるのではないでしょうか。

それに曹丕には動機もあります。

 


卞皇后べんこうごうの言葉には逆らえぬ

曹丕の生母にして、曹操の妻であった武宣皇后卞氏ぶせんこうごうべんし

曹操は、彼なりの理由があって彼女を正妻にしたとも考えられます。

最初の正妻・丁氏は、親族単位でつきあいのあった女性でした。そして彼女との離婚後、謙虚で聡明、かつ歌妓出身で「有力な後ろ盾のない卞氏」を選んでいるのです。

万事控えめで、そのことが曹操を引き付けていた卞氏。そんな彼女も、強く意見を主張したことがあります。

曹丕と曹植が立太子問題で対立した際、曹植を殺さないでと身を挺すようにかばったのです。

邪推であると前置きした上で言いますが、これには曹丕が『母さえいなければ、曹植一派を根絶やしにできた……』と考えてしまった可能性は否めないでしょう。

実際、曹丕の怨恨に関係なく、この後継者問題はやはり禍根を残しております。

曹植本人は命を奪われなかったものの、彼を推薦した家臣には犠牲者が多数出たのです。

犠牲者数だけで考えれば、やはり母なり妻なりを黙らせることは効率がよい――それは否定できないでしょう。

では、こうしたシステムエラーを排除するのであれば、どうすればいよいのか?

曹丕の父・曹操が、実例を示しております。

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