B-17爆撃機の攻撃を受け、回避行動中の空母赤城/wikipediaより引用

週刊武春 WWⅡ

ミッドウェー海戦を巡るもう1つのバトル 主役はジャーナリストだった

更新日:

ミッドウェイ海戦――それは日本人にとって惨めな負け戦です。

暗号を解読された挙げ句に待ち伏せされ、主力空母と熟練搭乗員の数多くを喪失。
太平洋戦勝の主導権まで無くしてしまいました。

この海戦を巡って、もう1つの熾烈な戦いがあった事を御存知でしょうか。

 

大スクープ過ぎて、米軍真っ青!

世紀の大スクープというのは、報道機関で働く人なら誰でも1度は夢見るもの。
世間をアッと言わせれば、記者冥利に尽きるワケです。

逆に書かれた側にしたら、慌てるどころでは済まない場合もあります。
1942年の6月7日のアメリカ軍部は、まさにそうした心境だったでしょう。

なんせ、あのミッドウェイで日米機動部隊が死闘を繰り広げている最中、よりによってアメリカの新聞シカゴ・トリビューン紙に、超大特ダネが載ってしまったのです。

当時の研究を重ねている、アメリカ海軍の研究誌によると、次のような見出しでした。

"Navy Had Word of Jap Plan to Strike at Sea."

日本の新聞の見出し風に訳すと、こんな感じでしょうか。

「我が海軍、日本の攻撃計画察知」

しかも、概ね同じ趣旨の見出しが、
ニューヨーク・デイリー・ニュース
◆ワシントン・タイムズ・ヘラルド
という両紙に載っていたとあれば、海軍の情報担当士官らは文字通り目を点にしたに違いありません。

 

「誰が漏らしたんだ!」部内は騒然

今日でもそうですが、スパイの情報源の1つは新聞です。
ゆえに戦時中は検閲体制が敷かれるわけで、当時のアメリカでも、新聞などのメディアは当然それに従っておりました。

しかし、隠しきれないジャンルがあります。
株価などの市況情報です。

これらは資本主義社会に必須であり、情報を載せないと会社への投資が立ちゆきません。
一方、そうした数値を基に、敵の意図を察知できたりします。

例えばアルミの精錬会社の株価とタイヤメーカーの株価が同時に急騰したら、それは軍部が即ち航空機の大量生産に踏み切った事を意味します。

ましてシカゴには穀物取引所がある。
穀物は軍用食の原料でもありますから、保存の利く食材の価格が上がれば、大規模な軍の展開があると推察できます。

当然、日独両国ともアメリカにはスパイを置いていたはず。
特に、ニューヨークとワシントンに潜んでいた事は、十分考えられるでしょう。

「もし、奴らが新聞を読んでいたら…」
と、海軍側では真っ青になります。

実際、「漏らしたのは一体誰だ!」と早速犯人捜しが始まりました。

まず分かったのは、これら3紙は、いずれも親会社が同じだった事。
マコーミック・パターソンという、今日で言うメディア・コングロマリットの傘下にあったのです。

そして、今でもそうですが、こうした系列紙同志で記事の使い回しをする場合があります。
通信社の記事を買い取って使うより安く上がるからです。

かくして1つの出元から皆で使ったという事までは、簡単に割り出せました。
流石にここらはアメリカ海軍情報部って所でしょう。

次に行われたのが、じゃあこの3紙の内、どこの新聞の記者が書いたか?という特定です。

これも簡単に割り出せました。
オーストラリア出身のシカゴ・トリビューンの戦争特派員スタンレー・ジョンストンでした。

そして、ここでアメリカ海軍は恐ろしい大失態をしていた事に気づかされるのです。

 

戦争特派員として誓約書を出させなかったばっかりに…

その大失態とは、手続きミス。
このジョンストン記者は、ミッドウェイ海戦の数ヶ月前に軍事担当となったのですが、その際に海軍側では戦争特派員として必要な誓約書にサインさせていませんでした。

そして、誓約の中身には海軍当局から「これは書くなという検閲指導があったら、素直に従え」という文言がありました。

つまりこうです。
検閲に従う誓約書を求められなかった以上、記者として事実なら何でも書いてよいという事になってしまったのです。

そして、書くまでも無い事でしょうが、戦時下の最前線に送り込まれるような記者が無能な筈が無い。
アメリカ海軍は、自ら災厄を引き込んだようなものでした。

……と、ここまで書いて思うのですが、ミッドウェイと言えば、徹頭徹尾、日本側の失態が目立つ負け戦ですよね。

暗号が解読されて、手の内バレバレだわ、にもかかわらずノコノコと出向いて大敗……と言うのは史実として動かしがたく、その大マヌケぶりがえぐり出されるという感じで、今日なお日本人にイヤーな思いをさせられる戦いです。

が、ナニ、向こうも向こうで結構マヌケやったんや……。

 

スレスレの書きようだった記事

さて、落ちこぼれの元新聞記者のワタクシメとして、苦笑せざるを得なかったのが以下の下り。

入念に記事を読めば、日本海軍の暗号が解読されていたのは明らかだ(アメリカ海軍情報部は、この暗号をJN-25-Cと名付けていた)。

裏を返せば、ハッキリとは書いていないって事です。
スレスレだったんですね。

何故か?
これ、新聞社に勤めた事のある人以外には分かりづらいかもしれませんが、「犯人捜ししたって無駄でっせ」って事なんです。

分かりづらいですかね(苦笑)。要するに、こうです。

海軍にしたら、誰がジョンストン記者に情報を漏らしたかは是非とも把握したい所。
しかし、記者に問いただしたってノラリクラリ言い逃れるのは必定です。

となると、記事に掲載されている内容から「ここまで知っているのはアイツに違いない」と推理し、アイツさんを呼びだすか何かして「お前が漏らしたんだろう!」と問い詰めるしか無い。

そして「すんません、私が言いました」となれば、アイツさんを左遷する。
そうすれば、2度と重要な情報がジョンストン記者には入って来ない。

こういうのを「ネタ元(情報源)を潰す」と言います。

で、これまた今日でもそうですが、記者側からしたら犯人捜し対策をします。
聴いて確認の取れた内容が100だったとしても、60から70だけを掲載すれば良い。

ハッキリと分かっている事も敢えてぼかせば、犯人捜しが難しくなるし、今後の取材も続けられます。

そして、ジョンストン記者に限らず、全世界の新聞記者の共通の鉄則は「ネタ元は、例え拷問にあっても言わない」。
いやー、この記者サン、ある意味、南雲機動部隊より手強い相手だったかもしれない訳です。

 

真相は35年後に明らかに

そんな構図を頭に入れて頂くと、当事者のジョンストン記者は口を割る訳が無いのはおわかりでしょう。
実際、戦争が勝利に終わった後も、沈黙を守りました。

そうなると、謎のまま幕切れか?
と思いきや、海戦から30年以上も経て、真相の一部が明らかになりました。

世紀の特ダネの舞台となった、シカゴ・トリビューンの編集長、クレイトン・カークパトリックが、1971年7月9日付けのニューヨーク・タイムズに寄稿したのです。

カークパトリックによると、ジョンストン記者の「驚くほど正確な結論」は、珊瑚海海戦(1942年5月3日〜6日)が発端だったそうです。

つまり、この少し後で日本海軍のアリューシャンとミッドウェイへの複雑きわまる攻撃計画を知り、何とシカゴに戻って詳細を書いたのだとか。

これには背景説明が必要でしょう。

珊瑚海海戦に、ジョンストン記者は空母レキシントンに座乗し、取材をしていました。
ところが、レキシントンは日本海軍機に攻撃され、それ自体では沈まなかったものの、被弾によって艦載機用の燃料が漏れ出し、遂には気化して爆発、大火災を引き起こします。

鎮火不能と判定され、味方の駆逐艦によって処分されたのは史実でも知られる所です。

この時に運良く九死に一生を得たジョンストン記者は、輸送艦バーネットに乗せられて西海岸のサンディエゴに寄港。
そして当時アメリカ海軍太平洋艦隊で情報士官を務めていたエドウィン・T・レイトンが、ジョンストン記者を今度は空母サラトガに配置させました。

アメリカの新聞博物館、ニュージアムのサイトによると、レキシントンから脱出する際に、ジョンストン記者は大やけどを負った水兵を助けるなどした事で、海軍側の受けが良かったようです。
その当たりをレイトンが配慮したのかもしれません。

当時、サラトガはサンディエゴの修理ヤードにあり、ミッドウェイ援護のため急遽出発しようとしていたのです(海戦そのものには参加せず)。

そして、助かっただけでも運が良かったジョンストン記者に、特大の幸運が(そしてアメリカ海軍には特大の不運が)舞い込みました。

後に少将にまで昇進したレイトンが「オーラル・ヒストリー」としてアメリカ海軍研究所に語った所によると、サラトガの士官室にある掲示板に、チェスター・ニミッツ提督による公文書を何者かが掲示しました。

そこには
【山本五十六・連合艦隊司令長官がアリューシャンとミッドウェイ島を攻略する】
と書かれていたのです。

それを見たのが、スタンレー・ジョンストン記者その人だったと言うのです。

 

機密情報が張り出されていた!?

「バッカじゃなかろかルンバ♪」って展開ですよね。

つまり情報源は、士官室に出入りしているどこぞのアホな軍人だったと言う訳。
そんな大事な情報を、記者が目にするかもしれない場所に貼り出すなよ〜!

と、ここまで書くと「このtakosaburou(*筆者)とかいう奴か、カークパトリックってオッサンが適当に嘘八百を並び立ててるんちゃうか」とお思いになられる方もおられましょう。

無理もありません。
事実は小説より奇なりを地で行く展開なのです。

ところが、これには別の証言があり、事実を裏書きしているのです。

ノンフィクション作家のフィリップ・ナイトリーが、著書「最初の戦死者」(The First Casualty 1975年ハーコート・ブレース・ジョヴァノヴィッチ社刊)の中で、カリフォルニアに向かう途中、このジョンストン記者を目撃したというのです。

おそらくこの時までに何らかの方法で日本海軍のミッドウェイ攻撃のネタを裏取り(確認)してまとめあげ、シカゴに到着後に記事にしたのだろうとナイトリーは推理しています。

……思えば、とんでもない記者を助けてしまったという訳ですね。

さて、事実は小説より奇なりという展開が更に続きます。

ホノルルやサンディエゴだけではなく、当然の事ながら、首都のワシントンも蜂の巣をつついたような大騒ぎ。

ところが、ここでも思いも寄らぬ舞台劇の第二幕が待っていた!

 

海軍長官がライバル新聞の元記者だった

戦史に詳しい人なら、当時のアメリカ海軍の長官の名前が即座に出てくる筈です。
そう、フランク・ノックスですね。

戦後は軍艦の名前にも使われるなどした名長官でありましたが、就任する前の仕事までは御存知無い方が大半でしょう。

実はこの方も、元新聞記者。
しかも、シカゴ・トリビューンの天敵であるシカゴ・デイリー・ニュース紙出身だったのです。

当時のトリビューン紙の発行人を務めていたロバート・R・マコーミックを蛇蝎の如く嫌っていたのはお約束。
上記のニュージアムのサイトによると、マコーミックはルーズベルト大統領の天敵でもありました。

そこへ、この世紀の超大スクープ記事が掲載された訳ですから、これはもう火に油を1億バレルぐらい注ぎ込むようなもの(汗笑)。

「糞ボケが! 要らん事を書きくさりやがって!! 日本のスパイが読んで、本国に通報したらどないするんじゃ!!!」
という至極真っ当な大義名分と、そして長年の天敵を懲らしめてやろうと言う下心を秘めて?報復に出ます。

周囲を動かして裁判に出たのです。

実際、1942年8月7日にフランシス・ビッドル司法長官が大陪審を開くと宣言しました。

被告は勿論、トリビューン。
ジョンストン記者の特ダネについて法廷でのバトルとあいなります。

政府側からはウィリアム・D・ミッチェルが選ばれ、法務担当員となります。
この人、1925年に最高裁で政府側の弁論を行う訴訟長官を、また1929年には司法長官を、それぞれ歴任した、言わば首都の裁判の裏表を知り尽くした手練れ。
被告席に立たされた掲載した3紙の編集長にしたら全身これ脂汗です。

そして、3紙に大特ダネを載せたジョンストン記者も証言を求められます。
戦時下だった為か、審理は5日間だったそうです。

この時の様子を、後の1959年3月にノックス長官の特別アシスタントを務めたアドレー・スチーブンソンが証言しています。

スチーブンソンによると、ジョンストン記者は次のように証言していたそうです。

曰く、珊瑚海海戦で座乗していたレキシントンが上記のような末路を遂げた5月4日、自分は重巡ニューオリンズに助けられた。
ニューオリンズは南太平洋のヌーメアに向かい、そこで救助者を下ろして今度は真珠湾に向かった。
本来なら、ヌーメアで下艦して当然ではあったが、そのまま乗り続けた。

航海の途上のある日の事、艦橋に向かう途中、キャビンを通った際、自分は開封されたメッセージが机の上に置かれているのに気づいた。
触りはしなかったものの、中身はしっかりと記憶し、それが記事の基になった〜そう大陪審で証言したのです。

お気づきでしょうが、レイトンの証言と矛盾していますね。
そもそも、助けた軍艦が輸送艦から重巡になっていますし。

ここからはワタクシメの推測ですが、ありのままに証言したら自分をサラトガに配置してくれたレイトンの立場が危うくなるので、嘘をついたのではないかと思われます。
当時も今も、嘘を付いたら偽証罪ですが、レイトンに恩義を感じていた可能性があります。

もっとも、ニュージアムによると、このキャビンを使用していたのは、レキシントンの副長を務めていたモート・セリグマン。
ジョンストン記者とは仲が良かったのですが、法廷証言後の1944年に退役しています。

戦時下で、指揮官級の人材は幾らあっても足りない筈なのに、不自然ではあります。
このためニュージアムはネタ元がセリグマンなのではないかと見ているようです。

どちらが正しいにせよ、情報管理がなっていませんね(と、日本人として強調したい)。

さて、当時の海軍の情報部の最高責任者はセオドア・S・ウィルキンソン提督(少将)です。
提督にしたら、軍艦の上ではなく、よりによってワシントンという地上の法廷で難しい舵取りを迫られます。

裁判の性格上、当然の事ながら海軍軍人の関心が高く、傍聴したがる向きが多かった。

そもそも裁判を開いた理由が「こんな事書いたら、日本側が暗号解読されているって気づくだろうがナニ考えとんじゃボケ新聞め」という懲らしめにある以上、傍聴されると「我が海軍は日本海軍の暗号を解読しているのか!」という噂が軍内に広がってしまいます。

スパイがどこに潜んでいるか分からない以上、これは絶対に避けたい所。
かくして提督は、その持てる権力と影響力をフルに使って、誰も来させないようにしたのでした。

こうなると、ミッチェルも「政治判断」を迫られます。

当時のマスコミに対し、1942年8月20日、「開示された限りでは諜報法に抵触していない」と言わざるを得ませんでした。

そもそも、ジョンストン記者に誓約書のサインをさせなかった以上、法律抵触もヘッタクレもありませんので、記者らに嘘は付いてない格好。いやー、何時の世も、狸みたいな官僚がおるもんですな、洋の東西を問わず。

 

「茶番劇だ!」と今度は議会で問題視され…

で、これで幕引きかと思いきや、まだ続きがあります。
二転三転四転五転してるんですわ。

というのも、今度は下院で問題視され始めたのです。
1942年8月31日、つまりと言うか、何と言うか、ガダルカナル島での戦いが始まってから24日目(『もう次始まってまんがな大将』って感じですね)に、下院のエルマー・J・ホランド議員が、こうぶち上げたのです。

「議員諸君、大陪審に提出する前の重罪の起訴状を読むとだよ、これは公開裁判であるべきだ。そして、公開裁判には、一般証言が付きものだ。その一般証言にしてもだ、刑事裁判では熟練した被告側弁護士が説明するものであろう。つまりこうだ。軍事機密が今なおあるとしても、罪状に対する弁護をするのに関係するとしたら、公けにされねばならない筈だ」。

その軍事機密が、日本海軍の暗号を解読している事を指すのは、現在から見たら一目瞭然ですなぁ。

しかも、この議員さんは真相を知っていました。
ズケズケと、こう続けているからです。

「ニューヨーク・デイリー・ニュースとワシントン・タイムズ・ヘラルドにも転載されたトリビューンの記事を読めば、我が海軍が何らかの手立てで日本海軍の秘密暗号を取得・解読し、敵の最高指令を密かに把握した事は明白だ。我々の敵の計画が、連中の暗号を通じて知る所となっているのは、戦争遂行に計り知れない利点となっている」

そう言い切った上で「トリビューンの記事掲載の3日後、ジャップらは暗号を変えてしまったのだぞ」と非難しています。

 

「奇跡の日曜日」に救われた?

この非難演説を読むと「うわー、やっぱり日本のスパイが探知していたのか」とお思いかと。

「あれ? 待てよ、確か山本五十六ってさ、行動スケジュールを記した暗号電がバレて搭乗機が撃墜されてなかったっけ?」
との突っ込みがありそうですね。

実は、くだんのJN-25-C暗号が変更されたのは、ホランド議員の指摘通りだったのですが、今日言うところのマイナー・チェンジ。
引き続き解読出来ていました。

先に挙げたカークパトリックも、ニューヨーク・タイムズの寄稿で、こう書いています。

「当時のトリビューン紙は、この論争を呼んだ記事の掲載が法律に抵触していないと迷いもなく確信していた。そして掲載は言論の自由を保証した憲法修正第1条に守られた新聞社の特権と一致していたのだ。ただ、歪んだ歴史の解釈として、トリビューン紙が国益を損ねたという嫌味を言う向きは出てこよう」

いやー、日本人として言わせて貰いますけど、歪んでないと思いますよ(笑)。

そして、誰もが突っ込むであろう箇所には、こう強弁。

「こう問いかける人が出て当然だろう。『日本のスパイが、どこかにいたのでは?』。もし1942年の夏にアメリカ国内にスパイがいたとしても、シカゴ・トリビューンやニューヨーク・デイリー・ニュース、そしてワシントン・タイムズ・ヘラルド、はたまた議会議事録は読めなかったって事さ!」

いやだからさ、それって結果オーライって言うんじゃないの?
ともあれ、この掲載日にスパイが新聞を読んでいなかった可能性はあります。

では何故読んでいなかったのか?

実はこの6月7日って、日曜日だったんですね。
つまり、スパイが知りたがっていた穀物取引所が休場の日。
「今日は、わざわざ新聞を買いに行かなくても良いか」って展開だったのではないかと、ワタクシメは推理しております。

もしそうなら「奇跡の日曜日」だったと言えましょう。

 

そして、お約束かもしれないオチが

その後、アメリカが戦争に勝つと、全ては有耶無耶になってしまいます。
これでようやく、全巻の終わり…じゃあ無いのです(苦笑)。

そう、お約束かもしれないオチ?が待っていました。

これほどの大特ダネだったのに、アメリカの新聞記者なら誰もが夢見るピュリッツァー賞の受賞を、ジョンストン記者は逃しているのです。
何しろ、ピュリッツァー賞のHPで1942年を検索すると、次のような結果が。

The Chicago Tribuneの文字が、どこにも見当たらない…。
当時も今も、全米の各紙は「どこの社のどんな記事が受賞したか」を詳細に載せます。

そうなると、今度こそスパイが目にするかもしれません。
恐らく、エントリーすらさせて貰えなかったのではないかと推察されます。

さしものジョンストン記者も、強運を全て使い果たしてしまったのかもしれませんね。
その心中や如何にって感じです。

その後、ジョンストン記者は1963年にこの世を去ります。
連れ添った奥さんは、その後再婚したものの、2009年12月3日に天寿を全うし、記者の後を追います。
享年100。長生きしましたなぁ。
これはこれで、1つのニュースでしょう。

ちなみに、訃報記事を書いているのは、旦那さんの新聞社、つまりシカゴ・トリビューンだったりします。
奇縁と言えましょうか。

……と、ここまで書いたら今度こそ終わりって思いたいんですけど(涙)。
近年、この話がアメリカでは再び注目されています。

NSAによる要人盗聴を暴露したエドワード・スノーデン氏と、その告発報道を巡り、「情報管理とマスコミのあり方」がクローズアップ。
その流れで「昔、こんな報道があった」と、ジョンストン記者の事例が再び脚光をあび始めているのです。

便乗商法なのか、自社の歴史を大々的にPRしたいのか。
シカゴ・トリビューンが特集記事を8月11日に書いていたりしますが……すんません、これ以上は体力の限界っす。
また今度にでも(涙笑)。

南如水・記

 



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