天正三年(1575年)5月16日は徳川方である奥平家の足軽・鳥居強右衛門が亡くなった日です。
「とりいすねえもん」という変わった名前の武士ですが、なぜ足軽が注目されるのか?というと、もちろん理由があります。
【長篠の戦い】が行われる数日前のこの日、織田徳川に勝利をもたらすような働きをしたのです。
その内容があまりに劇的なせいか。
現在に伝わる鳥居強右衛門の話は、色々と脚色された可能性を指摘されますが、本稿ではよく知られた説を振り返ってみたいと思います。
まずは長篠の合戦前夜から見て参りましょう。
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奥平信昌の守る長篠城
長篠の戦いは、長篠城という徳川家の城が武田勝頼に攻められたことから始まります。
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もともと大きな城ではありません。
城主として奥平信昌という武将が守っていましたが、精強で知られた武田軍を相手にするにはかなり分が悪い状態でした。
どうにか気力と根性で持ちこたえていたのですが、武田軍の攻撃がいよいよ激しくなり、長篠城はどんどん士気を落としていきます。
あるいは籠城戦で命となる兵糧が底を尽きかけたとも伝わっており、
「このままでは全員討死か餓死か……」
という状態に悩んだ信昌は、徳川家康への救援要請をすることにしました。
しかし、この時点で長篠城は武田軍にすっかり取り囲まれており、ただお使いに行くだけでも決死の覚悟が必要です。
生きて帰るどころか生きて家康の下にたどり着けるかどうかもわからないような難業に、数少ない部下を駆り立てるのか……と悩む信昌に、自ら名乗り出る者がありました。
それが鳥居強右衛門という名の足軽(一般兵)でした。
家康と信長に窮状を訴え、来た道をまた戻る
水泳が得意。
百姓なのか武士なのか、身分の低さゆえに顔すら知られていない。
そんなことも考慮してか。
信昌は鳥居強右衛門にこの任務を命じます。
強右衛門は、城から外に通じる水路と川を泳いで渡り、見事、城外への脱出に成功しました。そして……。
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