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【鳥居強右衛門】
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命を賭して強右衛門は叫ぶ「援軍は来る!」
武田軍は長篠城周辺の道や農村を調べ始め、強右衛門は捕まってしまいました。
取調べによって援軍が来ることは白状してしまいましたが、彼はもう助からないことを悟って最後の意地を見せます。
勝頼に「援軍は来ない、と城に向かって叫べ!そうしたら命を助けてやろう」と命令され、城の前に立たされるのです。
そこで強右衛門は、従順に勝頼に従うフリをしながら突如、大声で叫びました。
「二、三日で信長様と家康様がいらっしゃるぞ! それまで皆頑張れ!!」
そうです。
強右衛門は、武田軍に強要されたことと真逆のことを叫んだのです。
勝頼としては「援軍が来ないことを知れば、長篠城は降伏するか士気がガタ落ちするだろう」と考えてこのように命じたのですが、真逆のことを叫ばれたおかげで計画が台無し。
激昂して強右衛門をその場で磔刑に処したといいます。
しかし、強右衛門の勇気ある行動と死に様を見た長篠城士はかえって士気を上げてしまい、勝頼の目論見は大幅に外れ、城が落ちることはなく……織田・徳川連合軍が到着した後、ここから少し離れた設楽原というエリアで【長篠の戦い】が始まるのです。
ふんどしスタイルの絵になる
強右衛門の死は武田軍でも「あっぱれな忠義者」として語り伝えられました。
磔になる直前に話した落合佐平次道次という武士は、その死に様を絵に描かせて旗指物(「俺が◯◯だ!」と戦場で主張するための旗とか飾り)として用いたといいます。
趣味が悪いのか武士らしい思いやりなのか、微妙なところですが、当時の感覚ではきっと後者だったのでしょう。
それが記事のTOPに掲載されている磔の絵です。
実際は「逆さまではなく通常の立ち姿」と目されておりますが、その方が印象的なため、そう伝えられてきたのでしょう。
いずれにせよ鳥居強右衛門の働きは認められ、その子・鳥居信商には百石の石高を取り分を与えられております。
この信商、奥平信昌の四男である松平忠明(母が家康の娘・亀姫)に仕えるのですが、【関ヶ原の戦い】ではなんと、敵の安国寺恵瓊を捕えるという大きな戦功を挙げています。
家康の長女・亀姫はメンタル不安定な毒姫か?母は殺され兄は自害
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これによって二百石を加増され、その後も出世を重ねて最終的には1,200石にまで増えていたと言いますからもはや足軽ではなく立派な武士。
実際に、鳥居家の子孫たちは藩の重職に就いて、明治維新まで存続するばかりか、現在まで血が続いているそうです。
日本人で「ご先祖が武士」という家はけっこうあるでしょうが、確実に名前がわかる一兵卒の家が存続しているケースはそうそうないんじゃないでしょうか。
強右衛門本人の武名だけでなく、代々それに恥じないよう心がけていたのでしょうね。
さて、長篠の戦い本戦は?
さて、鳥居強右衛門の活躍によって長篠城が窮地から脱すると、この後、織田徳川連合軍と武田軍は「設楽原」で対峙します。
そこで両軍がぶつかるわけで、いわゆる【長篠の戦い】ですね。
地名からとって【設楽原の戦い】とも呼ばれたりします。
一般的な長篠の戦いとは、この設楽原の戦いのみに注目し、事前に起こっていた長篠城の攻防や鳥居強右衛門の一件は、世間ではあまり話題になりません。
結果は織田徳川連合軍の圧勝ということはよく知られ、あたかも武田勝頼が愚将のように印象付けられております。
が、そう単純にも言い切れませんので、よろしければ以下の記事を続けてご覧ください。
長篠の戦いで信長の戦術眼が鬼当たり!勝因は鉄砲ではなく天然の要害だった?
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なお、鳥居強右衛門の功績については、次の書籍で細かな史実検証が行われています。
Kindle版でしたらすぐに読めますので、興味をお持ちの方は併せてご覧いただければと存じます。
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長月七紀・記
【参考】
国史大辞典
金子拓『鳥居強右衛門 (中世から近世へ)』(→amazon)
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)
鳥居強右衛門/wikipedia
長篠の戦い/wikipedia