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週刊武春 災害・事故

恫喝されて沈められ…タイタニックに負けず劣らず悲惨だった豪華客船「ルシタニア号」の末路

更新日:

 近現代戦史研究家のtakosaburou氏のタイタニックシリーズ第3弾です。

 

先日のタイタニック三姉妹物語は、それなりに受けたと編集部から聞き、少し喜んでおります。「寄稿ありがとうございます。船ほど平和時と戦争時での処遇の違うものはないんじゃないかなぁとよんでておもいました」との言葉には、色々と考えさせられました。

 

実際、その通りです。しかも、大きな客船となれば、オリンピック号のように兵員輸送などに転用されて危ない橋を渡る羽目になったりしますし、一方で沈んだところで「戦争中だし」と、目立ちもせずに忘れ去られてしまいますから。ブリタニック号など、その典型ですよね。

 

今回、紹介するルシタニア号は、その例外とも言うべき存在なのかも。タイタニック三姉妹建造のきっかけとなった船でもあり、その末路が三姉妹以上の存在感を示す結果ともなり。

 

ルシタニア号

 

そう、先にも書きましたが、アメリカの参戦を招いてしまったからです。世界史の授業でも取りあげられているぐらいですよね。

 

英独の国威発揚という流れの中で

 

さて、このルシタニア号ですが、こちらもこちらで当時の国際情勢を反映して生まれた船でした。「国同士の見栄張り」という文脈があったのです。いや、「国威発揚」と言い直すべきなのか…。

 

旅客機が登場する前の時代、国家間での人員の高速大量輸送手段は船でした。そして、欧州で産業革命が起き、かつナショナリズムが各国で沸き上がると、色んな国で「ウチはこれだけ凄いんだぞ」という国威発揚モードとなっていきます。

 

その象徴とも言えるのが豪華客船。蒸気機関という当時の最新鋭テクノロジーを駆使し、山のように大きな船が高速で動く様は、建造した国の名声となりました。

 

そうなると、当然の事ながら「七つの海を支配している」と自負する英国が、まずこの分野で目立とうとします。対抗馬となったのがドイツ。こちらは「科学とテクノロジーの国」としてのプライドがあります。かくして、客船の大きさとスピードで競い合うという展開となっていったのでした。

 

その目安となったのが「ブルーリボン賞」。同じ名前の賞が邦画界にあってややこしいのですが、早い話が大西洋を高速で横切った客船に与えられる賞。1位となった客船には青のリボンをトップマストに掲げて良く、これが名称の由来となります。ちなみに、西回り航路と、東回り航路での2つの賞がありました。

 

主としてアメリカ・ドイツ・英国の3ヶ国での競争となり、賞が設けられた1830年代は2週間だったのが次第に短期間となり、1892年には1週間を切ります。で、この頃から英国とドイツの競争となっていきます。そんな中で誕生したのがルシタニア号でした。

 

当時、意識された相手が「カイザー・ウィルヘルム2世」号。名前からお分かりのように、ドイツの北ドイツ・ロイド社が1903年に建造した船。当時のドイツ皇帝だったヴィルヘルム2世から名前を借用しただけあって、総トン数1万9631トン。1888人乗りで、23.5ノットまで出せました。

 

ルシタニア号は、これら全てのスペックを上回るべく建造されました。総トン数は3万1550トン。2198人乗りで、最高速度は26.7ノットまで出せました。実際、1907年9月に就航後1ヶ月足らずで、ブルーリボンをカイザー・ウィルヘルム2世号から奪っています(速度は西回りで23.99ノット。東回りで23.61ノット)。

 

なお、建造に当たっては、当時の英国政府から、戦時には軍に徴用するとの含みを持たされた資金援助があったそうです。英国政府にしたら、ドイツの皇帝の名前を付けた船に勝ちたいという見栄もあったのでしょう。そして勝った。一方、ドイツ側にしたら、恥をかかされたという思いもあった筈。そうこうする内に、第一次世界大戦を迎えたのでした。

 

進水前のルシタニア号

 

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ドイツ政府がご親切?にも広告 「乗るとどうなっても知りませぬぞ」

 

戦争が長期化するようだと踏んだドイツ政府は、1915年2月から、悪名高き無制限潜水艦作戦を実行します。英国の周囲に封鎖海域を設定し、同年2月18日以降に通過を試みた船舶は無警告で沈めるとの方針を打ち出したのです。当然、その対象には交戦国だった英国の船舶が含まれましたし、ルシタニア号とて例外ではありませんでした。

 

さて、当のルシタニア号ですが、開戦後も英国政府に徴用される事はありませんでした。高速が出せる特性があったものの、それだけ燃費が悪かったからというのが理由。引き続き米英を結ぶ客船として運用され続けます。ただし、軍需物資の運搬という密命もあったようです。船体も灰色に塗り替えられました。

 

ドイツ側からしたら、目の上のたんこぶなのは言うまでもありません。ただし、行き先が当時の中立国であるアメリカである以上、アメリカ人が乗っているわけですし、そう簡単に沈める訳にもいかない。かくして、新聞史上に残る恐怖の広告戦術に出ます。これです。日本の新聞で言う、突き出し広告です。

 

 

 

「リバプール経由で欧州へ。最速かつ最大の蒸気船が大西洋航路にて運航中。5月1日午前10時にトランシルバニア号が、7日午後5日にオルダシア号が、18日午前10時にトスカニア号が、21日午後5時にルシタニア号が、6月4日午後5時にはトランシルバニア号が出航します。ジブラルタル、ジェノバ、ナポリ、ピレウス(訳注:ギリシャの港)を回るカルパチア号は5月13日正午の出航予定です」。

 

と、ここまでは時刻表とでも言うべき内容。驚かされるのは、その下にある、ドイツ政府のセット広告。

 

「警告! 大西洋の航海をなさる渡航者の皆様は、ドイツ帝国とその同盟国、及び英国とその同盟国との間に戦争状態がある事をご認識なさって下さい。つまり、戦場はブリテン島の周辺海域も含まれます。ドイツ帝国政府からの公式通達によれば、英国とそのあらゆる同盟国の国旗を掲げた大型船は、これらの海域では攻撃の対象となります。英国とその同盟国の船に乗って戦場である海域に航海なさる渡航者の皆様についても同様であり、危険は自らでご承知下さいませ。 ドイツ帝国大使館, ワシントンD.C. 1915年 4月22日」。

 

丁寧な文章ですが、こう言ってるに等しい。

 

「乗ったらどうなっても知らんぞぉ!」。

 

しかも、訃報広告でよく使われる、喪罫と呼ばれるラインで囲んでいます。「乗ったら死にますよ」とも言っている訳ですね。

 

通常、どこの国でも、新聞社が広告を掲載するに当たっては、考査という手順を踏みます。まず、広告主の素性をチェック。相手が犯罪組織で、詐欺などを意図している場合があるからです。次に、掲載内容が社会通念的に妥当かどうかを勘案します。この際に良くないと判断したら、相手に修正を要求したり、場合によっては載せなかったりします。今日でも、週刊誌の新聞広告などで女性のヌード写真の乳首部分に★印を入れるのは、そういう流れなのです。

 

で、この場合はドイツ政府ですので、素性はパス。で…中身ですが、恐ろしい内容ではあるものの、戦争状態であるからには、危険性を認識して貰うというのは大事という判断になった模様。かくして掲載となった訳です。

 

もっとも、この広告を読んだ乗客の大半は馬鹿げた脅迫だと見なしていたそうですが。

 

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高速船ゆえの慢心が命取りに

 

firstworldwar.comというサイトの記事によると、ルシタニア号にも慢心がありました。25缶あったボイラーの内、6缶を使わなかったのです。燃料を食いすぎるからと言うのが理由。これにより、速度は21ノットに低下していました。もっとも、これでも当時のドイツのUボートの最大船速である13ノットに比べれば高速でしたので「大丈夫」と踏んだのです。

 

豪華な船内

 

ところが、これには見落としが。そうです、魚雷は21ノット以上出ますので、狙われるとチョー危険。実際、その悪夢が現実となります。アイルランド海峡で、U-20に発見されてしまうのです。

 

それは5月7日の事でした。1257人の乗客と、707人のクルーを乗せ、ウィリアム・ターナー船長の指揮の下、リバプールに向かっていた所を、ワルター・シュヴィーゲル艦長が率いるU-20の潜望鏡が、ルシタニア号を捕らえたのです。

 

この艦長は運に恵まれていた人でした。前々日の5日にもスクーナー船であるアール・オブ・ルサム号を撃沈。この時は浮上して、警告した上で砲撃して沈めていました。翌日には同じくアイルランド海峡でキャンディデート号という貨物船を霧にまぎれて近づき砲撃と魚雷で撃沈。更にセンチュリオン号という客船を沈めています。そして、7日午後1時40分、両者が遭遇したのでした。

 

この時も霧が立ちこめており、アイルランドの沖合に近づいていた事もあって、ターナー船長は減速を命じます。15ノットだったそうです。英国側は、この3日間で3隻の船が沈められている事をルシタニア号に無線で警告しておらず、船長は予定通りの航路をとっていました。

一方、U-20は9ノットで前方から近づき、700メートルになった所で魚雷を発射しました。ルシタニア側でも、乗組員が魚雷の航跡に気づいてメガホンで絶叫したのですが、操舵室の方で聞き取れないという不運もあって、回避出来ずに命中してしまいます。

 

復元イラスト(Wikipediaドイツ)

 

 

見る見るうちに船は傾いていきました。

ターナー船長は陸地に乗り上げる事で船を救おうとしますが、不運が重なります。船底で2度の大爆発を起こし、電力周りが駄目になってしまい、隔壁の扉が閉められなくなってしまったのです。

午後2時、船は海面に姿を消してしまいます。そう、たった20分で沈んでしまったのです。余りの速さのせいか、人数分が乗れる救命艇を積んでいたにもかかわらず、殆どが助かりませんでした。かくして死者数1198人という、タイタニック号とほぼ同じ規模の大惨事となってしまいした。

 

イラスト(Wikipediaドイツ)

 

ドイツ側も驚いてしまうあっけない沈没

 

この沈没の速さには、U-20側も驚いてしまいました。シュヴィーゲル艦長は、次のような戦闘詳報を残しているぐらいです。

 

「通常では有り得ないような大爆発と、強い爆風が最前頭部の煙突よりもまだ前から起きたようだ。」

2度目の爆発は魚雷命中後と思われる。ボイラーか石炭、火薬の爆発だろうか? 右舷の甲板より上の構造物とブリッジがバラバラになってしまった。炎が吹き上がり、煙がブリッジ最上部まで達していた。船は即座に停船したが右舷に転覆し、急速に沈んでいった。助かった人は少なかったものと思われる。」

「甲板では大混乱が起きていた。救命艇は備えられており、何隻かが船首と船尾から降ろされてはいた。左舷は右舷よりも降ろされた数が少なかった。水蒸気が爆発し、船は沈んでいった。船首に金色の文字で『ルシタニア』と書かれているのが読み取れた。」

「煙突は黒く塗られ、船尾に旗は掲げられていなかった。直ぐに沈みそうだったので、我々は深度24メートルまで潜航し、離脱した。助かろうとしている群衆に向かって2発目の魚雷を発射することなど、私には出来なかった」。

つまり、命中させてから相手がルシタニア号だったと気づいたのです。

 

で、この2度目の爆発が後々まで大論争を引き起こす原因となります。ドイツ側は「火薬を積んでいたからこそ、あんな速さで沈んでしまったのだ」と主張。これを英国側は否定し、残虐非道だと反論します。

 

今日の研究では、ターナー船長の判断ミスが少なくとも5つあったとされています。その中で、文字通り致命的だったのが、アイルランド海峡をわざわざ通ってしまった事。狭いのでジグザグ航行が出来ず、魚雷の絶好の標的となってしまったからです。残り1日で目的地のリバプールに着くとは言え、それってどうなのよという訳です。

 

128人死亡 アメリカ政府激怒、ドイツ皇帝に直談判

 

ともあれ、これに激怒したのが当時のアメリカ政府。128人もの自国民が亡くなってしまったのですから、当然の反応と言えましょう。駐独大使がウィルヘルム2世に謁見して抗議した他、ウィルソン大統領名で複数回、抗議書を出しています。これにはドイツ側も釈明せざるを得ませんでした。

 

また、死者数が多かったので各国でドイツへの非難が沸き上がり、ドイツ人の利用を拒否するレストランまで出てくる始末でした。

 

ただ、英国側にも落ち度はありました。上記のように警告はしていないし、現場海域近くで英国海軍の巡洋艦「ジュノー」が作戦行動中だったのに、U-20を捕捉できなかったばかりか、酷い事に救助すらしていません。

旧式艦で、速度が遅い(18.5ノットしか出なかった)事もあったのですが、一旦は現場に向かい、ルシタニア側からも艦影が見えるぐらいにまで近づいたのに、軍令部から引き返すように命じられて後にしたと言うのですから。多数の魚雷を搭載しており、U-20に狙われて誘爆される恐れがあったので、そう命じられた模様ですが…でも、船乗りとしての良心が疼かなかったのでしょうか? 結局、救助活動は2時間後に現場を通りかかった船などが行っています。

 

また、当時こうした大型の英国船は「Uボートと遭遇したらぶつけて沈めてしまえ」と命令を受けていました。実際、先の記事にもありましたが、オリンピック号がUボートに体当たりして沈めていますよね。この事はドイツ側も知っており、前方から近づいて来た事もあって無警告での攻撃となってしまった模様です。

 

「模様」と書くのは、シュヴィーゲル艦長がその後も軍務を続行していた事。つまりドイツ海軍側は問題視していなかったのですね。

また、艦長自身が1917年9月5日にフィンランド沖で英国海軍の駆逐艦によって撃沈され戦死し、追加の聞き取り調査ができなくなってしまったからです。

なお、戦死するまでにシュヴィーゲル艦長が沈めた船は18隻で、合計トン数は18万3883トン。第一次世界大戦中のUボート艦長としては6番目の戦績でした。軍人として有能だったとも言えましょう。それがルシタニア号にとっての悲劇でもありました。

この船の撃沈がアメリカの宣戦布告につながるの? 

なお、世界史の授業などで早合点しがちなのですが、この船の沈没が即座に宣戦布告となった訳ではありません。実際にアメリカがドイツに宣戦布告したのは1917年4月6日。2年も経ってから。つまり、参戦のきっかけとまでは言い難いのです。じゃあ、最終的な決め手は何だったのか? これについては、後日をお楽しみに。

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 takosaburou・記





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