アントニオ・ガウディ

アントニオ・ガウディ/wikipediaより引用

スペイン

最期はホームレスと間違われたアントニ・ガウディ 芸術に没頭した生涯とは

「スペイン」と聞いて何を連想します?

情熱的なフラメンコや闘牛、パエリアなどの料理だけじゃなく、芸術方面がかなり特徴的。

・ピカソ
・ダリ
・ゴヤ
・ベラスケス

などなど、教科書に載っている有名人が多数おりますが、今回はその中でも突出した一人に注目してみましょう。

1926年(日本では昭和元年)の6月7日、建築家アントニ・ガウディが事故に遭い、10日に亡くなりました。

サグラダ・ファミリアの設計者として有名な人ですね。

日本だとアントニ”オ”・ガウディと表記されていることが多いような気がしますが、出身地カタルーニャだと”オ”がつかないそうですので、こっちにしておきましょう。

スペインも地方によっていろいろ複雑な経緯があるお国ですので、そこは大人の事情に配慮ということで。

 

芸術センスの土壌は銅細工職人の両親から?

ガウディは、スペイン北東部のカタルーニャで生まれました。

フランスと国境を接する地域で、サッカーチームのバルセロナは世界的な知名度ですよね。

ガウディは、両親共に銅細工職人の家系で、これが彼の芸術的センスに大きく影響したとされます。

また、後々「自然が教科書だった」とも述べている通り、小さい頃から動植物などをよく観察するような、好奇心の強い子供だったとか。

リウマチにかかったことがあるなど、あまり身体が強くなく、ジッと観察眼を育んだのかもしれませんね。

芸術家としてのスタートは11歳からでした。

修道会が運営する学校で、友人と作った雑誌の挿絵がキッカケ。

演劇をやるときには大小の道具を作ったり、旅行先で見つけた廃墟の修復を計画したり、この頃から立体物への関心も強かったとみられます。

ガウディの生家

ガウディの生家/photo by Maksim wikipediaより引用

 

建築学校に入るも3度の留年

20歳を過ぎた頃、ガウディは建築学校に入りました。

経済的に余裕がなく、勉強しながら設計事務所で働いていたそうです。

まぁ、座学と実践を同時にできたと考えれば本人にとってはメリットもあったのかもしれません。

意外にも三回の留年をしております。

サグラダ・ファミリアなどに見られる独創的なデザインセンスはこのあたりから発揮されていたようで、校長先生には

「狂人か天才か(´・ω・`) 後世の人の判断に任せよう」(超訳)

と評されています。

それ褒めてんのけなしてんの?

まぁ、結果的にその読みは当たってるんですけどね。

 

パリ万博がキッカケとなりサグラダ・ファミリアへ

苦労の甲斐あって、26歳で建築士の資格を取ったガウディは、早速オリジナルの仕事をもらいます。

パリ万博(1878年)に出展するお店のショーケースをデザインすることでした。

このときの作品がエウゼビ・グエイという大富豪の目に留まり、彼は以降ガウディのパトロンとして仕事の依頼と支援をしてくれるようになります。

人間いつどこで縁ができるかわかりませんね。

そしてパリ万博から5年。

ガウディに、いよいよサグラダ・ファミリアの建築家という大仕事がまわってきました。

実はこの建物、初代の建築家が着手した後に依頼主のカトリック団体と大ゲンカし、「なら俺は降りる!!」と言って辞めてしまっていたのです。

ですので細かいことを言えば、ガウディは二代目の建築家です。

ただし、この話を引き受けた際に「一から設計し直していいですか」「おk」(※イメージです)という条件を得ていたので、

【サグラダ・ファミリア=ガウディ】

という図式ができたんですね。

初代の人、涙目でしょうけど、しゃあない。

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