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その日、歴史が動いた イタリア 女性

肝っ玉母ちゃんカテリーナ 「子供なんてここからナンボでも出てくらぁ!」

更新日:

 

「女は弱し、されど母は強し」とはヴィクトル・ユゴーの言ですが、「多分この人、母親になる前から強かっただろうな」という人もいますよね。
本日はそんな例と思われる、とある国の「母」のお話です。

1509年(日本では戦国時代・永正六年)5月10日、イタリアの女性領主だったカテリーナ・スフォルツァという女性が亡くなりました。
日本の小説やライトノベルでも出てくるので、イタリア史に詳しくなくてもこの名前をご存知の方は結構いらっしゃるのではないでしょうか。

本日は、彼女の生涯を見てまいりましょう。

カテリーナ・スフォルツァ

一見おしとやか? 肝っ玉母ちゃんカテリーナ・スフォルツァです( ー`дー´)キリッ/Wikipediaより引用

 

「早く降伏しないと子供ブッコロすぞ!」と言われ…

カテリーナは群雄割拠だった時代のイタリアで、ミラノの領主ガレアッツォ・スフォルツァの娘として生まれました。庶子だったのですが、これはあまりデメリットにはならなかったらしく、11歳のときローマの貴族に嫁ぎます。
が、夫がアレコレやらかして失脚したため、一家揃って領地であるフォルリという町に移り住みました。

フォルリはローマのほぼ真北にある町で、大きくはないですが歴史ある町のひとつ。地図上ではローマとヴェネツィアのほぼ中間にあたります。
しかしそのフォルリでも夫が反乱を起こされて殺されてしまいました。旦那どんだけ人望ないねん。

ここで起きた出来事が、彼女の名を歴史に残したきっかけになります。
夫がブッコロされてしまった後、彼女と子供達は一度反乱側に捕らえられてしまったのですが、城内の兵士たちは降伏しませんでした。
これに対し、カテリーナは「私が説得しましょう」といって城に戻してもらいましたが、全く戻ってくる気配がありません。

とうとう反乱側が焦れて「早く降伏しないと子供ブッコロすぞ!」と怒鳴りました。
カテリーナは呼ばれた通り出て行きましたが、出た場所はなんと城の屋上。
そこで何をするのかと思いきや、バッとスカートをめくり上げ、「子供などここからいくらでも出てくるわい!」とタンカを切ったのでした。
カーチャンいろいろすげえ。

 

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日本では、清少納言によく似たエピソード

これは完全に余談ですが、清少納言の晩年にも似たようなエピソードがあります。

清少納言は主人の定子が亡くなった後に宮中を出て、尼になっていたといわれています。そのうち兄が政争に巻き込まれて討たれてしまったのですが、下手人が清少納言にも襲いかかってきたので、着物の裾をめくり上げて「私は女ですから!!」と撃退した、という話です。

頭に血が上ってる男の前でそんなことをしたら別の危険にさらされそうな気もしますが、その後のことは伝わっていないのでどうだったやら。この話は清少納言の時代から百年くらい後の本に出てくるものなので、完全に創作の可能性もありますけどね。

度々お話していますが、こういう逸話は事実かどうかよりも「その人に対して世間がどう思っていたか」を窺い知るためのものと考えていいでしょう。

この場合、「清少納言は男にも気後れしない、堂々とした女性だった(から気に食わない)」というところですかね。

 

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逸話が真実かどうか・・・ではなく人となりを表す?

話をイタリアに戻しましょう。
カテリーナの話も、よくよく考えればツッコミどころがなくもありません。
「城の屋上にどうやって上ったんだ」とか、「そもそもそんなところから怒鳴って声が聞こえるのか」とか、「いい的じゃねーか」などです。そりゃそうだ。

どこまで本当かはさておき、その後、無事反乱は制圧されました。反乱に関わった者は一族丸ごと処刑するという苛烈ぶりでしたが、まあこれはどこの国でもやってますから彼女だけが特別冷酷ということにはなりませんね。

カテリーナの武勇伝(?)はイタリアのみならずヨーロッパ中に伝わり、「イタリアの女傑・カテリーナ」として大いに喧伝されていきます。そのため現代の日本でも小説になったり、ライトノベルでも彼女と同名の人物(ただしタイプの違う女傑)が出てきたりしているというわけですね。

 

市民に嫌われ失脚 二度と表舞台に戻っては来なかったが

しかし、強気すぎて親族や領民との間はあまりうまく行っていなかったようです。
二人目の夫は元愛人でしたし、彼が亡くなった後は自ら復讐に乗り出して領内を混乱させ、反感を買いました。
また、彼女は最初の夫・ジローラモ亡き後、名実共にフォルリの主になっていたのですが、息子が成人しても家督を譲ることはなかったといわれています。
ヨーロッパでも女性の領主というのはたまにいますが、実権を持っていたのは珍しいですね。

そうした日頃の行いもあって、チェーザレ・ボルジアというローマの貴族に攻め込まれたとき、兵士たちはともかく市民は自ら門を開いてしまったのだとか。一説には「城に侵入されたときにはカテリーナも剣を取って戦った」とまでいわれていますから、兵士の中にも逃亡・投降した者はいたことでしょう。

そしてカテリーナは捕まり、チェーザレの元に連れてこられました。
チェーザレはまあいろいろ過激な人ではありましたが、無益な殺生をするような人でもなかったので、「領地を放棄するなら命は助けよう」と彼女に言い、カテリーナも渋々了承してこの件は片付きます。

後にチェーザレは失脚したため、カテリーナは「また領主に戻りたい」とローマ教皇に申し出たのですけれども、このときは市民に拒否されて叶いませんでした。どんだけ嫌われてたんだ。
だからといってだだをこねることはなく、その後は静かに暮らしていたようです。

コジモ・デ・メディチ/Wikipediaより引用

カテリーナの孫であるコジモ・デ・メディチ/Wikipediaより引用

 

孫がトスカーナ大公国を設立!

彼女本人はそんな感じでいわゆる「敗者」なのですけども、「血筋を残した者が勝者である」と考えるとまた話が変わってきます。

三人めの夫との子供が傭兵隊長として活躍、その子供(カテリーナの孫)はフィレンツェの主となってトスカーナ大公国(現在のイタリア・トスカーナ州。キャンティという赤ワインで有名)という国を作っているのです。

ついでにこれまた余談を付け加えますと、カテリーナのひ孫が天正少年使節と会っていたりします。どこで繋がってるかわかりませんねえ。こういうのが歴史の醍醐味でもありますが。

そんなわけで、彼女の血筋はトスカーナ大公国やその子孫を通じて、ヨーロッパに引き継がれていったのでした。
一つの家としては残っていませんが、そういうのも生物としては勝ちですよね。多分。

天正遣欧少年使節/Wikipediaより引用

天正遣欧少年使節/Wikipediaより引用

長月 七紀・記

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参考:カテリーナ・スフォルツァ/Wikipedia Zorac歴史サイト

 

 





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