クエンティン・タランティーノの映画『ジャンゴ』に、こんな場面があります。
――舞台は、南北戦争前夜のアメリカ南部。
黒人を差別&虐待している悪辣な奴隷農場主のキャンディは、フランスかぶれでアレクサンドル・デュマの作品を愛読し、奴隷には『三銃士』の主人公であるダルタニャンという名をつけています。
それを知ったキングという男が、あきれてこう指摘します。
「きみ、デュマは黒人だよ。そんなことも知らないで愛読していたのかね?」――
この台詞を聞いて、フランスを代表する文豪が黒人の血を引いていることを初めて知った人もいたことでしょう。
猛将・トマ=アレクサンドル・デュマ。
アレクサンドル・デュマ(大デュマ)の同名の父である彼は1762年3月25日、白人貴族と黒人奴隷の間に生まれました。
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父は侯爵 母はその奴隷
1762年、トマ=アレクサンドル・デュマは、フランス領サン=ドマング(現ハイチ)に生まれました。
父はダヴィ・ド・ラ・パイユトリー侯爵。
母は侯爵が買った美しい黒人奴隷マリー=セセットです。
アレクサンドルの父・アントワーヌは元軍人でしたが、除隊するとプランテーション経営をして暮らすという不思議な経歴の持ち主でした。
アレクサンドルは少年時代を大自然の中で暮らします。
野山や海岸を駆け回ることで優れた身体能力を獲得し、この能力は後に軍人となったとき大いに活かされます。父はアレクサンドルに歴史や教養、そして剣術を手ほどきしました。
上には三人の兄がいました。侯爵はマリーと三人の息子を奴隷商人に売り飛ばしてしまいます。
四人目の息子アレクサンドルも一度は売り飛ばされたのですが、父は彼を私生児として取り戻して手元に置きました。
1776年、アレクサンドル14歳のとき、爵位をついで侯爵となった父とともにフランスへ向かうことになります。
それまで大自然の中を駆け回っていたアレクサンドルは、侯爵の私生児として豪華な城で暮らすことになったのです。
スタイル抜群のイケメン貴族
絹の衣服を身につけ、パリの社交界デビューを果たしたアレクサンドルは、洗練されたマナーを身につけ、すぐに溶け込みます。
社交界でのアレクサンドルはたいへんな美貌の持ち主として有名でした。
彼の持つ黒人としての特徴も、当時はマイナスにはなりませんでした。
彼の黒く豊かな巻き毛は、古代ギリシア人やローマ人のようだ、古代文明を思わせる――と賞賛されたのです。
180センチを越えるほど背が高く、筋骨隆々としている様はまるでヘラクレスのよう。それなのに、手足はほっそりとしていて長く、スタイルも抜群でした。
当時の男性のズボンはかなりぴっちりとしており、脚のラインが優美であることは美男の必須条件だったのです。
美男で剣術が滅法強い貴族って、どこの活劇の主役ですか、というところですね。ちょうどロック様ことドウェイン・ジョンソンのような感じでしょうか。
しかし社交界の美男としての日々は、1786年、アレクサンドルが24歳の年に終わりを告げます。
父の再婚に反対したアレクサンドルは父と意見が衝突し、絶縁する結果になったのです。
アレクサンドルは、「農家の」という意味の「デュマ」を母方の姓として名乗るようになります。
父の財産をあてにできなくなったアレクサンドルは、王妃付竜騎兵連隊に貴族の息子ではなく一兵卒として入隊。その3年後、フランス革命が起こるのでした。
電撃出世を遂げる革命の申し子たち
フランス革命が起こると、アレクサンドルは竜騎兵としてヴィレル=コトレの治安維持任務につきます。
そして1792年、この街でアレクサンドルは、彼の颯爽とした姿に惚れ込んだ名士の娘マリー=ルイーズ=エリザベート・ラブーレと結婚。
革命は、フランスだけでなく、その植民地にも自由の精神を吹き込みました。
植民地では奴隷が自由を求めて反乱を起こす一方、アレクサンドルのようなフランス国内の黒人の血を引く者は、より一層祖国への忠誠を強めていました。
革命のために胸を燃やすフランス国民は、肌の色が何色であろうと関係がない、それが当時の考え方だったのです。
アレクサンドルは伍長から中将まで、一気に昇進。人情に篤く、堂々たる体躯を持ち、馬術にも剣術にも秀でた彼は、まさにフランス軍屈指の猛将となったのです。
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