トマ=アレクサンドル・デュマ

トマ=アレクサンドル・デュマ/wikipediaより引用

フランス

ナポレオンに背いた猛将トマ=アレクサンドル・デュマはあの文豪の父だった

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そこの7歳若いナポレオンもいた

革命の最中、電撃出世を遂げていたのはアレクサンドル一人ではもちろんありませんでした。

彼よりも7歳若いナポレオン・ボナパルトいう青年士官も、この嵐の中で実力を伸ばしていたのです。そしてナポレオンもまた、フランス本土ではなく、フランス領の島出身でした。

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ナポレオンの生まれ故郷であるコルシカ島は、ナポレオンが生まれたころイタリア領からフランス領になったばかりです。

その島の下級貴族出身であるナポレオンは、平時であればチャンスを掴むことは難しい出自でした。肌の色も出自も関係ない革命の時代だからこそ、彼らは出世できたのです。

イタリア方面軍指揮官に任じられたナポレオンは、破竹の勢いで勝ち進みます。伝説的な勝利をおさめたこのイタリア遠征軍の中には、数多くの名将が指揮官として従軍していました。

その中にはアレクサンドルもいました。

敵はアレクサンドルの猛将っぷりを恐れ、彼を「黒い悪魔」と呼ぶようになります。

 

立ちはだかるのがドーバー海峡、分厚い壁

イタリア遠征の成功で、革命以来フランスに敵意を見せ付けていたオーストリアはおとなしくなりました。

次に彼らが狙いを定めたのは、宿敵イギリス。そこに立ちはだかるのがドーバー海峡、分厚い壁です。

仏英の力を比べると、伝統的に海軍力において大きな差がつけられていました。ルイ16世はこのことを理解し、フランス海軍の改革に取り組みました。

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結果はきっちりと出て、アメリカ独立戦争ではフランス海軍がイギリス海軍相手に勝利をおさめることもあったのですが、それも革命までのこと。

結局、フランスの海軍士官はほとんどが貴族出身であったため、革命期に彼らは亡命したりつるし上げられたりして、大きな打撃を被ったのです。

それでも残った貴重な艦隊と人材は、このエジプト・シリア戦役の最中に起きたナイルの海戦で全滅寸前の大敗北を喫したことで、さらに大きく失われてしまいます。

ドーバーを越えてのイギリス侵攻は無理。となれば、遠回しな手を使って打撃を与えるしかありません。

目を西から東に転じれば、イギリスの植民地であるインドがあります。そのインドとイギリスを見せる中間地点を征圧するというのが、ナポレオンの意図でした。

かくしてフランス軍はイギリス軍艦の目をかいくぐり、エジプトへと上陸します。1798年から足かけ3年にわたるエジプト・シリア戦役、またの名を東方遠征の始まりです。

 

人馬一体の姿はケンタウルス、勇猛さはヘラクレス

五万人の兵が参加したこの遠征に、アレクサンドルは当初から違和感と不快感を覚えていました。

酷暑の砂漠を行軍するというのに、将兵たちはウールでできた軍服を着込んでいます。装備は18キロ。

イタリアならば喉が渇けば小川なり井戸を探せばよいですし、食料だっていざとなれば調達できます。ところがエジプトの砂漠では飲み水も食料もありません。

兵士は暑さと飢えに苦しみ、バタバタと斃れていきます。

この現状に多くの将兵が怒り狂い、遠征軍の状況は悪化していきます。革命の理想を掲げるアレクサンドルは、人の命を平然と消費するナポレオンに嫌悪感を抱き、「己の野心で無謀な遠征を行っている」と厳しい批判をするようになります。

一方、ナポレオンにとってもアレクサンドルは目障りでした。

この遠征軍の中でひときわ目立つ将軍はアレクサンドルです。現地の人々は、痩せて顔色が悪い小男であるナポレオンを見ても「なんだ、あんな男が指揮官なのか」と失望しました。

しかし、背が高く見栄えがして、砂漠でも堂々と馬を乗りこなす彼は超人的な印象を与えました。

味方からはその人馬一体の様をケンタウルスにたとえられ、勇猛さはヘラクレスにもたとえられ。反抗的な現地の人々も、アレクサンドルが来ると言うことを聞きます。

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