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【アンリ・サンソン】
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フランスよ、死刑制度を廃止してくれ
サンソンはストレスのあまり、耳鳴りや幻覚、手の震えに悩まされました。
何百人も斬首し続けるため、助手の確保やギロチンのメンテナンスにも金がかかり、家計も火の車。
それでも先祖代々のつとめをサンソンはこなさねばなりませんでした。
およそ2700名を処刑した4代目サンソンがようやく引退できたのは、恐怖政治が終わりを迎えた1794年の翌年、1795年のことでした。
4代目サンソンは人間味にあふれ、心優しい人でした。
革命と恐怖政治の時代、死刑執行を決めた政治家は憎まれ、彼ら自身もまたほとんどが処刑されることになりました。
しかし、サンソン自身の死を望む声はまったくあがりませんでした。
むしろ遺族たちは、死の直前まで死刑囚に優しく接し、希望をかなえてあげたサンソンに感謝の念を示すほど。
サンソンはルイ16世の血のついたハンカチを家に持ち帰り、僧と修道女に頼みこみ、国王のためにミサも行っています。
当時はカトリック信仰すら否定されていた時代です。しかも処刑した王のミサです。
発覚すれば死の危険があるにも関わらず、カトリック信仰がナポレオンによって認められるまで、10年ほどにわたりサンソンは秘密のミサを続けました。
そんなサンソンの夢は、フランスが死刑制度を廃止することでした。
冤罪の人を殺さないために。犯罪者にも立ち直る機会を与えるために。そして、自分たちのような社会から蔑まれる処刑人一族を生み出さないために。
死刑制度は廃止されるべきだと、生涯願い続けたのです。
彼の願いがかなったのは1981年。
サンソンの死から150年後のことでした。
「わが生涯に一片の悔いもなし!」
サンソンが2700人という膨大な人数を処刑する羽目になったのは、フランス革命という政治が混乱した時期に生まれたことが最大の原因でした。
ただし、これだけが原因とは言えません。
サンソンにとってかつての恋人であり、ルイ15世の寵姫であったデュ・バリー夫人も、彼によって処刑された一人です。
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処刑に際して取り乱し泣き出す彼女を見て、サンソンはこう思います。
「誰もが皆、彼女のように泣き叫んでいたら、こんなにも処刑されなかっただろうに……」
革命で処刑された人々は「わが生涯に一片の悔いもなし!」とでも言いたげな堂々とした態度で斬首されていきました。
しかし、処刑が剣によるものであれば、誰しも堂々としてはいられなかったことでしょう。
時間がかかり、失敗することもあります。
ギロチンのように決してうまくはいきません。
革命に生きた人々の堂々たる態度、そしてあまりに便利に斬首できてしまうギロチン。この二つが人の斬首刑を簡単なものにして、処刑を加速させてしまったのです。
ギロチンは苦痛を長引かせたくないという、純粋な善意から導入されました。
処刑前に人々が胸を張っていたのも、処刑は楽だとアピールしたいわけではありません。人間の尊厳を保つためでした。
誰も効率よく人をたくさん斬首しよう、なんて思っていなかったのです。善意が結果的にそうなってしまっただけです。
処刑人という仕事は存在そのものが社会の必要悪であり、きつい究極のブラック労働です。
それをさらに歴史的なまでに過酷なものとしてしまったのは、善意と効率化が要因としてありました。
よかれと思って取り入れたシステムが、かえって事態を悪化させる……フランス革命期を生きた処刑人サンソンからは、そんな教訓が得られることでしょう。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考】
安達正勝『死刑執行人サンソン ―国王ルイ十六世の首を刎ねた男 (集英社新書)』(→amazon)
・サンソンのマンガ化作品
坂本眞一『イノサン 1 (ヤングジャンプコミックス)』(→amazon)