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週刊武春 中国

関羽は死後が熱い!? 『義』の代表がやがて万能の神として崇敬されるまで

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中国は蜀の名将・関羽――。

三国志好きなら今さら説明するまでもないビッグスターであり、歴史に全く興味のない方でも、中華街に足を運んでいれば一度は目にしたことがおありでしょう。
「赤や黄色に彩られた、ド派手なお寺の中にいる、真っ赤な顔に長い髭のおじさん」
そう、その人です。

彼のことを、横山光輝三国志で、好きになられた方も多いでしょう。
あるいは蒼天航路の不思議な表情に、うっすらと恐怖を覚えた人もおられるかもしれません。
そして、歴史の書籍をたしなみ、少しずつリアルな史実に触れてくると、ちょっとした疑問も湧いてくるかと思います。

関羽って、実際はどんだけすごかったん?

残念ながら、正史『三国志』における「関羽伝」の表記は千文字以下と言います。
武将として心身共に強く、劉備にとっては唯一無二の存在であっても、史実における中国代表の名将とまでは言えないのでは……。

今回は『関羽: 神になった「三国志」の英雄 (筑摩選書)』を参考にその背景に迫ってみたいと思います。

 

北の異民族が怖い! 困った時の関羽頼み!

中国史に興味はないけど、三国志は好き――という方は日本にも多いと思います。
ともかく三国時代は別格の人気。三国鼎立という対立構造が面白いといった要素も大きいですが、その魅力は、長いこと語り継がれ、物語としてアレンジされてきた要素が影響しているでしょう。
最終的に同時代は、魏の三国統一によって終結します。

三国鼎立といっても、この中で一番小さく弱い蜀は、天然の要害に守られた地方軍事政権といったところ。建国者の劉備は漢王朝の末裔を自称していたとはいえ、その真偽も定かではありません。どう冷静に考えても、蜀が正統とは言えないはずです。

『資治通鑑』といった史書でも、魏の元号が採用されていました。

しかし、庶民の間ではそんなことはお構いなし。とにかく人気があるのは蜀。
三国時代の物語は「説三分」というジャンルに分類され、講釈師によって語られる人気のテーマでした。子供たちは蜀が勝てば歓声をあげ、魏が勝つと悔しがったのです。

北宋(960〜1127)の時代、関羽の人気はエンタメ作品にとどまらなくなります。

北方の女真族に圧迫される中、漢民族は女真族を魏、自分たちを蜀に重ねるようになりました。北宋最後の皇帝である徽宗(『水滸伝』に出てくる遊び好きの皇帝です)は、民衆の関羽人気に注目。彼の武勇にあやかり、国家の守護神とするため、忠恵公、武安王、義勇武安王に封建したのでした。

しかし、関羽の神通力では北宋を守りきることはできず滅亡し、徽宗は北方に連れ去られてしまいます。
徽宗の弟・高宗は南に移り、南宋が再興されました。

南宋の人々の間では、次第に北を懐かしむ気持ちが高まってゆきます。そんな心理の中、追い詰められても果敢に戦った関羽像はさらに魅力的なものとなっても何ら不思議はありません。

南宋の儒家である朱熹(朱子)は、「蜀漢正統論」を確立。南宋が滅んだあとの元は、朱子学を科挙の基準としました。官民ともにもはや魏を正統とみなすことはなくなり、『三国志』の著者である陳寿に対して「蜀の記述が薄すぎ。個人的怨恨でもあるの?」というツッコミが入れられたりします。

 

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「義」の理想像としての関羽

しかし元代に至るまで、フィクションにおいて人気があるのは、関羽より張飛や諸葛亮でした。

張飛はトリックスターという、その場を引っかき回し大暴れする役割です。型破りで暴れる様が爽快で、見ていてスカッとさせる効果があります。『西遊記』の孫悟空や『水滸伝』の黒旋風・李逵、『封神演義』の哪吒と同じタイプでしょう。

諸葛亮はともかく魔術的な働きが凄い。三国志ファンなら説明不要の魅力です。

元末から明代にかけて、羅貫中という文人がいました。彼は『三国志平話』等、当時流通していた三国志関連の物語をまとめて『三国志演義』を書きました。
ただしこの作品は彼一人で書いたわけではないようです。そしてこの『演義』から関羽像がより洗練されてゆきます。

『演義』の執筆や編集を担当した文人たちはこう考えました。

「荒唐無稽な登場人物を面白がるだけでは不十分。三国の物語を読み、人々が『義』とは何であるか考える、そんな道徳的に学べる作品にしよう。そのためには『義』を象徴する関羽のキャラクターを、もっと素晴らしいものにするべきだ」

『演義』に筆を入れた李卓吾、毛綸・毛宗崗父子といった文人たちは、教養に溢れていました。
彼らは版を重ねるごとにより洗練された「義の人」関羽像をつくりあげていくことに力を注ぎます。
三国志の物語は、盛り場で面白可笑しく語られるだけではなく、教養や道徳のために読まれる本へと洗練されていったのです。

そしてその過程で、不純物とみなされた史実の要素が削られてゆきます。
例えば正史から読み取れる、「関羽が呂布の部下の美人妻に気があって未練たらたらだった」という話は、バッサリとカット。代わりに、曹操が美人を使って関羽を誘惑しようとしても頑として拒むという話が作られました。
『義』の人・関羽に色気は不要なのです。

史実の関羽はどんな人であったか、ということはどうでもよいのです。
関羽には、その時代の人々が求める理想像、最高の『義』が投影されました。

 

義の人・関羽 やがて万能の神になる

関羽は物語で活躍するだけではなく、唐時代から神としても祀られていました。
ただ、この時点では三国時代の名将の一人という扱いで、張飛、張遼、周瑜らも同時に祀られています。

それが彼だけ別格になるのは、前述の通り北方異民族の脅威にさらされた北宋以降です。ここでの関羽はあくまで武勇の神であり、なんとなく納得できます。

さらに時代がくだると、関羽は財神にグレードアップします。
彼の出身地・山西は、古来より塩の産地でした。塩は生活に欠かせないものであり、貴重なものです。山西地方は商人が多く、中国商業界において大きな力を持っていました。
彼らが地元の神様として崇拝した関羽は、商人に信仰される過程で、お金を儲けさせてくれる御利益がある「財神」に変貌していったのです。

しかも商人というのは移動しながら商売を広げてゆくものです。
彼らが移動した先でも関羽信仰は根付きました。

さらに関羽には治水の効果もつきました。
これは明代、治水担当者が地元の関羽に祈りを捧げたところ、工事が成功したことがきっかけだとか。

武勇も商業も治水もカバー。
もはや彼は万能神へと進化を遂げるのです。
これだけ御利益があったら、誰だって信仰しますよね。

関羽はついに「文」の孔子と並ぶ「武」の神様となり、上は皇帝から下は庶民まで、多くの人々に敬愛される存在となったのでした。

 

世界に広がる「関帝廟」

時代がくだるにつれ、理想と御利益がグレードアップしていった関羽像。近代以降も、そんなものは迷信だと捨てられることもなく、関羽信仰は現代も存在します。

華人が海外に進出すると、その先には関羽が祀られる関帝廟が作られました。

関帝廟はただの信仰の場ではなく、コミュニティの共有財産を所有していました。商売に失敗した人や、親を失った子の学費として利用。華人のたすけあいの象徴として、関帝廟は機能していたのです。

関羽信仰には、各地に積極的に進出し、かつその地に根を下ろし生きてゆく、そんな華人のネットワークが大きく関わっているわけですね。

日本にも横浜中華街をはじめ、多くの場所に関帝廟があります。関羽の一生や人々の信仰心を思いながら、参拝してみてはいかがでしょうか。

小檜山青・記



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