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早雲・太田道灌ツーショット(絵・アニィたかはし)

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その日、歴史が動いた

北条早雲見参!関東の戦国時代が大炎に!【その日、歴史が動いた】

更新日:

中年になると「いかに老後を安泰に過ごすか」ということに意識が向きがちですよね。
ところが、今よりずっと平均寿命の短かった戦国時代においては、そうのんきな考えを持っている人はほぼいませんでした。
倅の後見に精を出したり、跡継ぎとの不和で内乱を起こしたりと、まあ皆さん元気なものです。
今回の主役もまたその一人。

明応二年(1493年)の10月11日、北条早雲が伊豆へ討ち入り、関東の戦国時代にガソリンを投入しました。
彼自身は生前、「北条」氏を名乗ったことがないのですが、わかりやすさ優先でいきましょう。

素浪人どころかおぼっちゃまだった?

小説やドラマでは「一介の素浪人から成り上がった」とされていますが、最近の研究では「元からそこそこの身分はあったんじゃないか?」という説が有力になってきているようです。
早雲の元の名前は伊勢盛時といって、室町幕府の中でも重職といえる申次衆(もうしつぎしゅう)の一人だったのでは?とされています。
この仕事は武士や大名が将軍に会うときに、取次ぎやそれに伴う雑務処理を担当する役職で、特定の家出身でないとつくことができませんでした。
伊勢氏もそのうちの一つで、伊勢盛時の名が記載された史料が見つかっています。

まあ、小説では一代で大名になったほうが盛り上がりますからね。なかなか史実が小説より奇なり、とはいかないようで。。。

ではどうして早雲が関東に来たのかというと、きっかけは姉妹(どっちかわかっていません。さすがこの時代、女性の扱いが適当です)の嫁ぎ先である駿河の大大名・今川家のお家騒動でした。
これを上手く治めた功績により、早雲は今川家で出世していきます。
既に応仁の乱が起きており、京都にいても戦に巻き込まれるだけだと思ったのかもしれませんね。
ご存知の通り、この後しばらく京は都とは名ばかりの荒れ放題、天皇の葬儀や立太子(新しく皇太子を立てること)の儀式すら延期になるほどの事態に陥りますから……。
一度京都に戻ってはいるんですが、今川家が再度ゴタゴタを起こしたせいで舞い戻るハメになり、駿河で結婚して腰を落ち着けています。

伝説だけは相当な存在・北条早雲こと伊勢宗瑞。名前の問題はどうするんですかね

伝説だけは相当な存在・北条早雲こと伊勢宗瑞。名前の問題はどうするんですかね(Wikipediaより)

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鎌倉kubouに古河kubouに堀越…「はい、ここテストに出ないよ~」

さて、本題の伊豆討ち入りです。
これまた大きくくくると「足利氏のお家騒動」という一言に集約されてしまうのですが、もうちょっと詳しく見てみましょう。
足利氏の家系=公方(くぼう、将軍クラス)と呼ばれる家が三つも出てくるせいで、ひたすらややこしくわかりづらいです。
後世からすると「お前ら身内なのになんでそんなに仲が悪いんだよ」とツッコミたくなってしまうところですけれども、当時は「兄弟は他人の始まり」どころか「血縁者は敵の始まり」みたいな時代ですからねぇ……。
日本だけに限った話でもないんですけどね、こういうの。
フランスの初期王朝なんて「王様になったら親兄弟は皆殺しにしろ!」っていうのが当たり前みたいになってましたし。おーこわ。

閑話休題。もとへ。

工藤兄弟ならぬ、クボウ3兄弟(実質は2つで、本当の兄弟じゃないけど)の一つめは、鎌倉公方。
名前の通り鎌倉に本拠を構えていた家で、ここの足利成氏(なりうじ)という人が「もう幕府なんて落ち目じゃね?オレの時代じゃね!?」と壮大な勘違いをして反乱を起こしたのが一連の事件のきっかけです。
当然幕府も見過ごせませんから、近場の今川家に命じて討伐させます。

これで成氏はあっさり負けて逃げるのですが、古河(こが、現・茨城県古河市)に移動してきて性懲りもなく公方を名乗り続けます。
これが二つめ、古河公方です。
鎌倉公方だった人が古河公方になったので、実質的には一つと数えてもいいかもしれませんね。
この古河公方は後々、関東管領上杉家を巻き込んでまたドンパチをやらかし、先日ご紹介した立河原の戦いの遠因をつく……ってロクなことしてないなコイツ。

それはさておき、最後は堀越公方です。
これは元々空席になってしまった鎌倉公方に新しく就くはずだった足利政知(まさとも・八代将軍義政のお兄さん)が、成氏側の妨害にあって鎌倉に辿り付けず、伊豆半島の堀越というところに収まって公方と呼ばれるようになったものです。
こっちはこっちで情けないな!

こうして不穏な空気が流れ始めた中で、堀越公方の政知があっさり死んでしまいます。
ここで問題になったのが跡継ぎ。
元々ドタバタの末にやっと落ち着いたところだったので、後継者をはっきり決めていなかったのです。
残されたのは母親の違う兄弟二人。
さあ、テンプレ臭が急に濃くなってきましたね。

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お約束どおりの兄弟げんか

長男・茶々丸は次男・潤童子とその母親を殺して無理やり跡を継いでしまいます。
それでしばらくはうまくいっていたのですが、京都で出家していた三男が還俗して新しく十一代将軍になったことから事態が急変します。
義澄(よしずみ)と名を改めた三男は、潤童子と同じ母親から生まれた兄弟でした。
当然茶々丸が憎くて仕方ありません。

仇討ちに燃える義澄は、まず茶々丸のいる堀越御所に近い武将へ「オレの兄貴とカーチャンの仇を討て!」と命じました。
ここで白羽の矢が立ったのが早雲だったのです。
伊豆討ち入りは、最初は将軍様のご命令によるものだったということですね。

早雲は念入りに下調べと工作を行い、堀越御所の内情や茶々丸の横暴ぶり、領民が疲弊していることを掴みます。
同時に「あのバカ殿がいなくなれば、もっと暮らしが良くなるよな!皆もそう思うだろ?」と触れ回らせて、内部から茶々丸への反抗心を煽っていきました。
軍記物語では早雲自ら密偵をしたと書かれていますが、はてさて。

堀越クボウ候補を追い出して大名に

こうして周辺の状況をつぶさに調べ上げた早雲は、伊豆全体の兵が手薄になるのを見計らって一気に夜襲をかけ、茶々丸を堀越御所から追い出しました。
その後も茶々丸は往生際悪く抵抗しますが、伊豆の国人(地元の有力者)を味方につけた早雲のほうが圧倒的に有利。
こうして早雲はまず伊豆半島を手に入れ、戦国大名としてのデビューを飾ったのでした。

ちなみに仇討ちを命じた義澄は早雲に褒美をくれたのかというと、京都での政権争いでそれどころではありませんでしたとさ。
いや、もしかすると褒美のそぶりがないから「なら伊豆もらっちゃうけどいいよね!働いたのワシだし!」と思ったのかもしれません。
「切り取り勝手」=「自分で攻めて勝ち取った土地は自分のものにしていい」って言葉もありますしね。
この後早雲=後北条家の台頭に従い、それまでもごちゃごちゃしていた関東は本格的な戦国時代に突入していくことになります。

……なんか、足利一門って京都から離れる度に周りに迷惑かけてる気が……気のせいですかね!

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長月 七紀・記




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