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「わし苦手なんで、君」(絵・富永商太)

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武田・上杉家 その日、歴史が動いた 徳川家 合戦

三方ヶ原の戦いとは? 武田と徳川がガチでぶつかり、家康さんはウ◯コ漏らして惨敗に……

更新日:

素通りされそうになった家康 キレて信玄に突っ込む!?

晩年に大きな成功を収めている人の多くが、若い頃にそれと同等もしくはそれ以上の失敗をしているというケースはよくあります。
失敗は成功の母というやつですね。
が、戦国時代だとまさに一か八かで命を落とすこともあるわけで。
それが大名ともなれば、巻き込む将兵の数も甚大になります。
明日はその最大の例の一つ、狸が若気の至りで惨敗したあの戦いがあった日です。

元亀三年(1572年)の12月22日、三方ヶ原の戦い徳川家康が武田信玄に大敗しました。

「家康が素通りしようとする信玄にキレて無理に出陣し、見事に叩き潰された」ということで有名ですね。
この一行で済ますと実にカッコ悪いのですが、事実だから仕方ない。

でも、この戦いには未だ不明なことがたくさんあります。
そこで今回は、経緯やその後についての説明を端折らせていただいて、三方ヶ原の戦いの謎についてツッコミを入れて行きたいと思います。

unkoを漏らし、苦悶の表情を浮かべるところをわざわざ絵師に描かせたという/Wikipediaより引用

苦悶の表情を浮かべるところをわざわざ絵師に描かせた(しかし、現在では三方ヶ原の戦いで描かれたものではないと否定されております)/Wikipediaより引用

 

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歴史を捏造しまくった幕府がなぜこの逸話を伝えたのか

まず素朴な疑問として、「神君家康万歳!!」の江戸幕府がなんでこんな恥の塊でしかない戦いを伝え続けてきたのかということが挙げられます。
多くの方がご存知の通り、江戸時代以前(特に戦国時代)の人物や事件について、江戸幕府はかなり恣意的に伝えています。

一番わかりやすいのは石田三成ですかね。
三成には確かにKYな面もありましたが、仕事に対してはマジメでした。
しかし、江戸時代には「三成は淀君と密通していて、秀頼は三成の息子だった」とか「秀次(秀吉の甥っ子)が悪巧みをしていると秀吉にチクって、切腹に追い込んだのは三成だ」という滅茶苦茶な理由で大悪人とされていたのです。

実際には淀君が秀頼を身ごもった頃、三成は九州・名護屋にいたので父親候補としては無理があります。
秀次についても、いくら耄碌し始めていたとはいえ、天下人である秀吉が三成のチクリを鵜呑みにしたとは思えません。

石田三成/wikipediaより引用

とまあこんな感じで、かなり捻じ曲げて伝えていることも多いのです。
基準は「幕府にとって都合がいいかどうか」。
そのまま伝えると見方によっては「豊臣から政権を奪った徳川」という受け取り方もできてしまうので、そうさせないために「ワルモノの三成を成敗して、ついでに腐敗した豊臣家も倒して、家康サマが天下を取りました!」ということにしたかったわけです。

現実にはどう見ても簒奪なんですけど、まあ現実が見えずに対策もしなかった豊臣家も豊臣家ですからねえ。

ここを踏まえて話を三方ヶ原に戻すと、どうもしっくりこないと思いませんか?

この後家康は、武田軍にあやかるため井伊直政へ赤備え(赤づくめの武装。武田軍の代名詞だった)を受け継がせたりしているのですが、隠蔽しようと思えばできたはずです。
どうしてわざわざ「神君」の経歴に傷がつくようなこの負け戦を伝えたのでしょう?

武田信玄

絵・富永商太

 

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この仮説どうよ?!

ここと他の謎を組み合わせると、少し尖った仮説を浮かべることができます。

一つは、これだけ有名な戦の割に三方ヶ原の戦いの主戦場がわかっていないこと。

もう一つは、家康が出陣した理由が「素通りされそうになって(=ナメられて)ムカついたから」という何とも稚拙なものであること。
シカトされて腹を立てたというなら、戦になった場所は家康のいた浜松城からそう離れてはいなかったでしょうから、場所をきちんと記録するのは簡単なはずです。

さらに、徳川軍の布陣がセオリーとは真逆の陣形であったということにも疑問が残ります。
このとき徳川軍は鶴翼(かくよく)の陣を布いていたといわれています。

これは鶴が翼を広げたような形の陣形で、包囲には向くものの、一ヶ所でも破られればそこから左右へドミノ倒しのように崩れていってしまいます。
それを防ぐためには、破られる隙を与えずに包囲を完成させなくてはいけません。

 

慎重な家康がなぜこの戦いでは猪侍だったのか

要するに、鶴翼の陣は相手より多くの兵がいなければ使えない・成り立たないのです。
ですが、このときの徳川方は織田からの援軍を入れても武田方の半数に満たない兵数でした。

しかも背後・坂の上という絶好の場所を取ったのに、わざわざ動きに勢いのつかない鶴翼の陣を選んでいるのです。
坂道を横一列に並んで一斉に駆け下りても、誰かしらコケるか遅れるかして列が崩れますよね。
それが集団で起きたとしたら、もはや戦にもならないことは明白です。

代々武将の家に生まれ、それ相応に戦術・戦略も教わっていたはずの家康が、こんな馬鹿げた攻め方をするでしょうか?
家康が言ったとしても、これほど玉砕が明確な戦法に家臣が唯々諾々と従うでしょうか?
いくら三河武士が犬と呼ばれるほどの忠臣でも、主君が討ち死にしかねないこんな戦い方をさせるとは思えません。

でも、この状況下で勝てる見込みがなくもないのです。

数で劣る戦であれば、奇襲をしかけるのはごくごく当たり前の話。
プライドをちょっと横に置いといて、わざと武田軍を素通りさせ、十分に油断させてから背後から叩けば勝つ可能性は上がったでしょう。
が、タイミングが早すぎた上、信玄が鶴翼の陣を打ち破るのに適した魚鱗(ぎょりん)の陣を布いていたことにより、徳川方がボロ負けしたということになっています。

 

実は有利だったのに逆転されたから?

仮に、これがすべて虚構だったとしたらどうでしょう?
古今東西、兵の数だけで戦の勝敗が決まらないことは誰もが知っています。
だからこそ地形や奇襲などの策を使ってその差をひっくり返すわけです。

しかし、逆転するための条件を全て備えていて、それでも負けたとしたら?

「兵数では劣るものの、地形も陣形も有利だったのに家康が負けた」としたら……これは「ムカついて挑発に乗った」「ビビリ過ぎてもらした」以上に武将として恥ずかしい話ですよね。
ついでに三方ヶ原近辺で信玄が死んでいて、「武田軍の足並みが揃っていないところへ背後かつ高所から攻め込んだのに、見事に返り討ちに遭いました」なんてことになってたらあまりの恥で憤死できます。
江戸幕府なら何が何でも隠すでしょう。

これだったら主戦場が不明なことや布陣のおかしさには説明がつきます。
「勝ち目のない戦いだったが、権現様は武士の誇りをかけて戦おうとご決断なされたのじゃ」と言っておけば、当事者以外は「流石は権現様!そこにしびれる憧れるゥ!!」なんて素直に信じるでしょうから。

もちろんタイムマシンで見てきたわけでもないですし、史料的な裏づけは一切ないトンデモ仮説ですが、たまにはこういうのも面白く……ないですか?(´・ω・`)

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長月七紀・記

 




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