信玄と家康が真正面からぶつかりあった――。
三方ヶ原の戦いが勃発したのは、元亀3年12月22日(1573年1月25日)のことでした。
大河ドラマ『麒麟がくる』に続き『どうする家康』でも取り上げられましたが、戦国好きの間では非常に有名な戦いであり、同時にナゾだらけの合戦でもあります。
今回は戦場とされるエリアを実際に歩きながら、あらためて諸説を検証してみたいと思います。
大きなテーマは2つ。
この合戦で注目度の高い、
・信玄の進軍ルート
・家康が城から出て戦った理由
です。
と、その前に【三方ヶ原(みかたがはら)の表記】について断りを入れさせてください。
三方ヶ原は、古くは「箕形原」と称されておりました。
「箕の形」の台地とも、その台地から見える富士山の形が「箕の形」だからとも言われていたのです。
そして当地が三ヶ村(和地村・祝田村・都田村)の入会地(いりあいち・柴刈をする共同所有地)になってから、現在の三方ヶ原という表記になったと伝わります。
あるいは戦いが終わった後、織田家に「もっと多くの援軍が欲しかった」ことを訴えるため、徳川家康が「味方ヶ原」と表記するように指示したとの説も……。

揚州周延『味方ヶ原合戦之図』(明治18年/1886年)
いかにも後世の作り話のようにも思えますが、いずれにせよ本稿では「三方ヶ原」の表記で進めます。
※中央馬上の将は、徳川軍の殿を務めた内藤信成で、右後方で名槍「蜻蛉切」を持っているのが本多忠勝。左後方には武田家最強赤備えを率いる山県昌景がいる
熟成しきった武田軍に若き徳川軍が
三方ヶ原の戦いとは、一体どんな戦いだったか?
まず一言でマトメておきますと、
【熟成しきった最強武田軍に対し、若き徳川軍が完膚なきまでに叩かれた】
というのが大方の見立てでしょう。
戦いの基本事項を先に【5W1H】で先にまとめますとこうなります。
◆いつ?
元亀3年12月22日(1573年2月4日)
◆どこで?
三方ヶ原
(静岡県浜松市北区三方原町周辺)
◆誰が?
武田軍30,000人(武田本隊25,000※北条軍2,000を含む+山県隊5,000)
vs
徳川軍11,000人(徳川軍8,000+織田軍3,000)
◆なにを?
武田信玄が浜松城北部の三方ヶ原を横切る時、徳川家康軍が浜松城から出陣して合戦となった
◆なぜ?
徳川家康が出陣した理由は諸説あり(後述)
◆どのように?
夕刻=申の刻(午後4時)に出陣し、2時間の戦いで徳川家康軍は大敗。
俗説では、武田軍の死傷者200人に対し、徳川軍は2,000人の死傷者を出したという(諸説あり、実際は武田軍490人、徳川軍1080人か?)
いかがでしょう?
すでに読者の皆さんがご存知の内容かもしれませんが、さらにここでは戦場のあった“浜松市”の【公式見解】を押さえておきたいと思います。
以下は
『二〇一五年 徳川家康公顕彰四百年記念事業 浜松部会記念誌』(以下『記念誌』と略記)
に掲載されたものです。
「三方ヶ原合戦 二俣城を攻略した武田信玄は、十二月二十二日早朝には浜松方面へ進軍した(軍勢三万)。
神増(かんぞう)付近で天竜川を渡り、秋葉街道を南進し、欠下付近(東区)で三方原台地へ上ったという。
軍勢の一部は新原付近(浜北区)で三方原台地へ上ったという言い伝えもある(休兵坂伝承)。
大菩薩山で陣を整え、追分から祝田(ほうだ)坂に至った付近で追撃した徳川勢(軍勢一万一千)との間で合戦となった。
すでに夕暮れ時であった。
石合戦から始まり、初めは互角の戦いであったが、やがて徳川勢が総崩れとなり、敗走した。
家康も命からがら玄黙口から浜松城に逃げ帰った。
追撃した武田勢は犀ヶ崖付近に本陣を構えた。
夜半には徳川勢の夜襲もあり、混乱した武田方には犀ヶ崖に落ちて死傷した者も多かったと伝えられる。」
今回はこのレポートと現地マップに基づき、武田信玄の進軍ルートを歩きながら考察を進めます(※注目すべき地名は赤太字で表記)。
なお、上記で戦いのキッカケとされた「石合戦」とは、両軍が礫(つぶて・手に握れるサイズの石)を投げ合うことです。
実際の戦闘では死傷者も出て、とても子供の遊びと笑えるシロモノではなく、中世ではしばしば戦場で用いられていたと伝わります。
信玄の進軍ルートを辿る
少し時間を戻しまして、三方ヶ原の戦い直前。
浜松市の『記念誌』によれば、武田信玄は合代島に本陣を置き、周囲の諸城を攻めておりました。
二俣城を落とすと、次は見付の3里北(磐田市の中心地から12km北)にある磐田市神増の渡河点で天竜川を渡り、浜松平野北部を東から西へと移動。
三方原の麓の欠下から三方原へ上り、大菩薩山の欠下城で昼食を取りながら全軍の到着を待ちました。
そして隊形を整えて三方原追分へ行き、そこから【三方ヶ原の戦い】戦場へと向かったことになります。
三方ヶ原の戦いについて書かれた市井の書籍には、武田軍が「秋葉街道を南進」という内容のものが多々見受けられます。
しかし「秋葉街道」は江戸時代に秋葉信仰が盛んになってからの呼称ですので、当時の呼び方は「二俣街道」の方が相応しいでしょう。
現在は、細い古道である「二俣街道」の西に太い新道が作られ、「飛龍街道」と名付けられています。
以下の「三方原合戦絵図」では、
秋葉街道の宿場町として栄えた宮口を通る東西の道を「秋葉街道」、南下する道を「二俣街道」として区別しておきましたが、実はどちらも「二俣街道」であり、後の「秋葉街道」であるのです。
そしてこの「欠下坂→欠下城(大菩薩山※1)→三方原追分」という武田信玄の進軍ルートは、「信玄街道」と呼ばれています。
「三方ヶ原の戦い」は小豆餅付近で繰り広げられました。
そして徳川家康が北から南へ(小豆餅から銭取へ)と逃げると、武田軍は追撃し、浜松城の手前・犀ヶ崖付近に本陣を構えます。
しかし、夜襲もあってか、浜松城攻めを断念。
三方原追分まで戻った武田信玄は姫街道に入って西へ進み、刑部砦を築いて本陣として年を越し、正月に野田城(愛知県新城市)攻めへと向かう――。
これが従来の【三方ヶ原の戦い概略】です。
しかし、上記の流れで「何も問題はない」と思われていた通説ですが、にわかに風向きが変わります。
研究者の高柳氏が
「戦いの始まりは小豆餅周辺ではなく、祝田坂を上った根洗松(ねあらいのまつ)付近」
だとする新説【祝田坂上説】を発表し、同合戦の再検討が始まったのです。
いったい戦場はどこなのか? 高柳説に揺れる地元
この高柳説に驚かされたのは、三方原に住む郷土史家の方々でした。
彼らは
「祝田坂は、祝田村の人が三方原に上って柴刈をする道であり、行き止まり。当時は三方原追分と祝田坂を結ぶ“金指街道”は無かった」
と主張しました。
が、逆に
「三方原追分と祝田坂を結ぶ“鳳来寺道(半僧坊道、現・金指街道)”があったのだ」
と切り替えされ、高柳説は学説(通説)となるのです。
日没が近いというのに、なぜ遠回りしたのか(三方原追分から祝田坂に向かったのか)?
私には理解できません。
一説に、武田信玄は、平口から休兵坂を上り、本陣を「都田山※2」に構えて昼食をとり、そこから都田へ抜けようとしたら、道が険しかったので、祝田坂を使ったとも言われております。
「信玄遂ニ浜松ノ城ヲ攻ズシテ、平口村ヲ歴テ、引佐部刑部ニ赴キ、爰ニ越年ス」(『武徳編年集成』)
ともかく三方原に住む郷土史家の方々は「古戦場が小豆餅だと思い込んで、徹底的に調査をしなかった自分たちの責任である。怠慢であった」と恥じて、三方原で徹底調査を行います。
そして、三方ヶ原の台地上を隈なく歩き回って見つけた痕跡の総数は、なんとなんと2つでした(三方ヶ原の戦いの痕跡は浜松城周辺に多く、これまで戦場での唯一の痕跡とされていた「千人塚」は前述の通り古墳と判明)。
2つとは、
「おんころ様」(武田信玄本陣・中川寺)
「精鎮塚(しょうちんづか)」(徳川家康本陣・本乗寺)
です。
この2つの痕跡は、今は2つの寺に移されていますが、以前は共に姫街道の三方原追分と刑部砦の間にありました。
ここから導き出された主戦場は「東大山一里塚」付近。
つまり武田信玄は、
三方原追分→戦場(東大山)→刑部砦
と姫街道を東から西へと進んだことになります。
今川義元の母であり、氏真の祖母である寿桂尼が初めて発給した文書は、大山寺宛のものです。
この大山寺があった浜松市西区大山町には、東大山と西大山があり、それぞれの山頂に本陣を構えて……という流れであれば絵的にもわかりやすいのですが、実際は、そのような本格的な戦いではなく、2時間足らずの「ヒット&アウェイ」だったようです。
あらためてマトメます。
いったい「三方ヶ原の戦い」の戦場はドコにあったのか?
①小豆餅付近説(旧陸軍参謀本部『日本戦史 三方原役』)
②祝田坂上説(高柳光壽『戦国戦記1 三方原之戦』)
③大谷東坂上説(鈴木千代松『三方原の戦いの研究』)
④都田丸山南説(岩井良平『三方原の戦と小幡赤武者隊』)
上記のように①~④の4説あり、当初は「小豆餅付近」が通説でしたが、後に「祝田坂上」へと変わりました。
ところが「武田信玄本陣の物見の松」とされてきた根洗松が枯れ、その年輪を調べたら「三方ヶ原の戦い」の時にはまだ生えていなかったことが分かってから「丸山の南」説も急浮上しており、真相はまだまだ定まっておりません。
この話題はここまでとしておき、次に家康が無謀な戦いへ挑んだ理由を考えてみましょう。
なぜ徳川家康は出陣したのか?
徳川の軍勢11,000に対し、武田は30,000。
ここで取るべき戦略の定石は「籠城戦」です。
にもかかわらず徳川家康はなぜ、無謀とも言える「野戦」を選択したのか?
主に以下の4説があります。
説①浜松城(徳川家康)を無視して素通りしたので怒った【これまでの通説】
説②祝田坂を下るところを上から攻撃すれば勝てると思った【高柳説】
説③家臣・織田信長・領民に見放されるのが怖かった【小和田説】
説④「印地打ち(いんじうち)」(石合戦)が始まってしまい、なし崩し的に出陣した【鈴木説】
一つずつ詳しく見てみましょう。
説①浜松城を無視されて
「我が国をふみきりて通るに、多勢なりというて、などか出てとがめざらん哉。とかく、合戦をせずしてはおくまじき。陣は多勢・無勢にはよるべからず。天道次第」(大久保彦左衛門『三河物語』)
少数で多数を負かせるとしたら奇襲か籠城戦。
二俣城を落とすのに2ヶ月もかかってしまった武田信玄は、浜松城を落とすにも日数がかかると考え、徳川家康を浜松城からおびき出す方法を考えました。
それが無視です。
武田信玄が、浜松城を素通りしようとすると、徳川家康は「合戦をせずしてはおくまじき」と怒りに任せて出陣しました。
若気の至り(当時家康は31歳)ですね。
徳川家康は「勝ち負けは天道次第」と時々言いました。
家臣にしてみれば「そりゃ策略次第でしょ!」という気持ちだったかもしれません。
あるいは織田信長が今川義元を討ち取った桶狭間の戦いを引き合いに出し、「小軍が大軍に勝ったのは、地の利にあり。此度の合戦、我等に地の利あり!」と思ったとかね。
説②祝田坂なら勝てると思い
『三方原戦記』には以下のようにあります。
「此時、家康公、鳥居四郎右衛門忠広を召され、物見の様子を仰せ付けらる。おっ付け、鳥居、立ち帰り、申し上げ奉るは、『人々、勇みかからんと申せ共、此度の御合戦は、御無用に遊ばさるべし。只今、信玄、大軍を一手に構え、山の際に伺い居て、勢い、猛虎の旗色なり。此軍、勝ち難し。早々、先手へ使者を遣わされ、軍勢を引き上げさせ給ふべし。若し又、戦わんと覚え召されんば、敵軍、祝田坂を登り候はん頃、上へ打ち崩し、無二無三に掛け立てなば、御合戦、勝利たるべし』と申し上げければ、家康公、聞き召し、殊の外、御機嫌悪しく御座有りて、御座をぞたたせ給ふ。」(『三方原戦記』※3)
11,000対30,000では、策無くして戦えば負けます。
徳川家康は、物見(鳥居忠広)の「此度の御合戦は、御無用に遊ばさるべし」(今回は戦わない方が良い)という報告を聞き、気分を悪くして座を外したにもかかわらず、「武田軍が祝田坂を下っている時に襲えば勝てる」と考えたようです。
坂の途中や下にいる兵はUターンして坂を上るのは不可能ですから、まずは、少数の坂の上の兵だけでも倒せば良い――つまり「戦った」という実績を作れば良いとの判断。
しかし、実際に祝田坂へ行ってみると、武田全軍が坂の上(三方原)に陣形を構えていたというものです。恐ろしいですね。
説③見放されるのが怖かった
怒りに任せての出陣か。
勝算ありと思っての出陣か。
それとも「不甲斐ないと思われる事に対する恐怖心」からの出陣なのか?
「敵、我城辺を推て通るに、城内に居なから、出て一当、当てさらんは、甲斐なく聞ゆる」(『浜松御在城記』)
織田信長は、3000人の援軍を送りました。
この援軍を率いる将は徳川家康の監視役だったともいいます。
信玄相手に何をするのか?
家康の行動は、怖い怖い織田信長に見張られていたというのですね。
武田信玄の西上作戦の目的は、そもそも上洛ではなく織田信長を討つことと考えられたようです。
そのため家康に「壁になれ」と織田家から援軍を送られたのに、何もしなかったら後が超怖い。
また、武田信玄と内通していないことをアピールするために出陣したとも囁かれております。
更には、もし何もしなかったら「不甲斐ない!!」と家臣団(=特に遠江国の国衆)が武田方に寝返ることを恐れていたとか、あるいは浜松城に避難していた領民が「領主様は、私達のために何をしてくれるのだろう?」という目で天守を見上げており、その目が怖かったとも考えられるというものです。
説④石合戦からなし崩し的に始まった
上掲の『記念誌』では「石合戦から始まり、初めは互角の戦いであったが、やがて徳川勢が総崩れとなり、敗走した」とあります。
どういうことか?
騎馬武者が5騎、10騎と次々と浜松城を出て物見(斥候・偵察)、あるいは見物(野次馬)に行くと、小山田信茂の投石隊と礫の投げ合いとなり、小競り合いが始まってしまい、浜松城へ兵を戻すために家康が出陣したところで戦闘に巻き込まれてしまったというものです。
「浜松衆、為物見。十騎、二十騎づつ懸来取合之間、是を可引取之由曰家康公出馬之處、不慮に及合戦。」(『當代記』)
「翌日は極月二十二日なり。信玄既に軍を戻さん為めに、浜松の北・大菩薩を押通り、刑部へ赴かんとて、四郎勝頼、山県昌景を後軍として、士卒を繰出す。浜松勢、此由を聞きて、敵、引取るを見物せんとて、或は五騎、十騎と馳せ出で、或は二十騎、三十騎宛、思ひ思ひに抜け出でて、雑卒に礫を打たせけるが、程なく千人に及びければ、神君も止むことを得給はず、浜松を御出馬あり。」(『四戦紀聞』)
「二十二日、信玄、兵を率て井ノ谷に引入らんとす。勝頼及び馬場、山県、殿後たり。浜松の壮士、五騎、十騎馳出て、此を見る。吾兵、初め、礫を打懸たり。敵も亦、交礫を飛せたり。」(『武徳大成記』)
現在は、この鈴木説が「三方ヶ原の戦い」の発端(真相)だと考えられています。
学者さんはA説とB説のどちらが正しいかと論戦しますが、私はAもBも正しいと思います。
小さな判断ミスでも生死に直結する戦国時代では、Aだけを理由に動くことはなく、AでもBでもある(そうするのが最善だという理由が複数ある)から人は動くものではないでしょうか。
もちろん、自説だけを肯定し、他説を否定する学者さんばかりではありません。
たとえば高柳氏は「どうも家康は心ならずも戦闘に巻き込まれた、という感がしないでもない」(『三方原之戦』p125)と鈴木説を示唆しているのです。
本編ここまで。
次ページにて、オマケ&参考へと続きます。
オマケ①家康の身代わりになった夏目吉信
武田信玄は、時間がかかる籠城戦にならないよう、短期決戦の野戦になるよう、徳川家康をおびき出そうとします。
しかし「三方原合戦絵図」にあるように
「名残」周辺で戦うと、攻めたらすぐに城門「名残口」から浜松城へ戻られてしまいます。
出来るだけ浜松城から遠く、最低でも三方原追分――できれば祝田の一本松(根洗松)など、北端の丸山までおびきよせたいのです。
そして実際にそうなった。
上掲の『記念誌』に「家康も命からがら玄黙口から浜松城に逃げ帰った」とあるように、文字通り「命からがら」の長い長い敗走が始まりました。
このとき夏目吉信は浜松城の留守居役でした。
しかし、戦況不利と見ると出陣し、徳川家康と馬を替え、槍で馬の尻を打って徳川家康を浜松城に戻すと、自らは「我は徳川家康なり」と名乗って戦い、時間稼ぎをしたと伝わります。
なんでも三河一向一揆のとき家康の敵側に回ったのに、命を助けられた事への恩返しなのだそうです。
「元亀三年冬徳川家康武田信玄ト三方原ニ戦ヒテ大敗ス時ニ夏目次郎左衛門吉信浜松城ニ留守セシガ急ヲ聞き与力二十余騎ヲ率い馳せ到レバ家康既ニ死ヲ決セリ因リテ大イニ之ヲ諌メ馬首ヲ浜松城ニ向ハシメ畔柳助九郎武重ニ目シテ日ク汝速カニ主君ヲ護リ去レト乃チ槍ヲ揮ヒテ馬臀ヲ打ツ馬驚キ奔ル家康辛ウシテ城ニ入ル是ニ於テ吉信自ラ家康ト称シ敵陣ニ突進シ奮戦シテ主従共ニ死ス実ニ十二月二十二日申ノ下刻ナリ時ニ年五十有五従者其ノ屍ヲ収メテ城ニ還レバ家康深ク其ノ忠死ヲ悼ミ郷里三河国幡豆郡豊坂村六ツ栗明善寺ニ於テ厚ク葬ラシム」(「夏目次郎左衛門吉信旌忠碑」裏の碑文)
「夏目次郞左衞門吉信が討死するそのひまにからうじて濵松に歸りいらせ給ふ。(夏目、永祿のむかしは一向門徒に組し、御敵して生取となりしが、松平主殿助伊忠、「此もの終に御用に立べき者なり」と申上しに、其命たすけられしのみならず、其上に常々御懇にめしつかはれしかば、是日御恩にむくひんとて、君、敵中に引かへしたまふをみて、手に持たる鑓の柄をもて御馬の尻を たゝき立て、御馬を濵松の方へをしむけ、その身は敵中にむかひ討死せしとぞ。)(『東照宮御実記』)
オマケ②浜松城の玄黙(元目)口は引馬城の搦手
三方ヶ原の戦いについては、古文書の記述が一致せず、史実は不明です。
ただ、上掲の『記念誌』にもあるように、地元の伝承では名残から伊場を経て浜松城の南の榎門からの帰城で、学説は引馬城の搦手・玄黙口から帰城です。
このとき「乗っている馬も違うし、供回りの人数も少ないので、徳川家康だとは信じられず、門番が門を開けようとしなかった」というのは作り話っぽいですが。
「玄黙(元目)口」というのは、古城(引馬城)の搦手のことですから、徳川家康は、三方原の中央の半僧坊道を小豆餅→銭取と辿って名残口から帰城したのではなく、三方原の東の二俣街道(後の秋葉街道)を通って玄黙(元目)口から帰城したというのが史実らしいです。
とすると、敗走中の徳川家康が茶屋に立ち寄り、小豆餅(あずきもち)を食べていると、追手(武田軍)が迫ってきたので、代金を払わず逃げたので、老婆が追いかけ、餅代を徴収した場所が「銭取(ぜにとり)」だとする地名「小豆餅」「銭取」の由来は「作り話」となりますね。
もしも史実であるなら、家康ではなく別の人の逸話ということになりましょうか。
あるいは銭取から六間道路を下って二俣街道に入ったか。
小豆餅は三方ヶ原の戦いの戦場とされてきた場所で、高階晴久が、白馬に乗った亡霊に小豆餅を差し出された場、「三方ヶ原の戦い」での死者を弔うため小豆餅を供えた場というのが地名の由来です。
銭取は追い剥ぎの巣窟があり、通行人から銭を取っていた場というのが地名の由来とされます。
当時、小豆餅から銭取にかけては、茶屋どころか民家すら無かったとか。
オマケ③徳川の夜襲で混乱した武田軍が……
上掲の『記念誌』には「追撃した武田勢は犀ヶ崖付近に本陣を構えた。夜半には徳川勢の夜襲もあり、混乱した武田方には犀ヶ崖に落ちて死傷した者も多かったと伝えられる」とあります。
この地には「布橋」伝説が残されています。
夜襲された武田軍は、白い布で作った橋を本物の橋だと思い込んで渡ったので犀ヶ崖に落ちたというのです。
オマケ④浜松に雪はミニ氷河期なら?
「布橋」伝説を聞いた時に「いくら夜でも、白布と橋を見間違えることはない」と思ったのですが、当日は雪が降り積もっていたと聞いてそれなら「有り得るかな……」とも思いました。
現在の浜松は温暖で、雪は年に数回、積もるのは数年に1度です。
しかし、戦国時代はミニ氷河期でしたから、今よりも高い頻度で雪が降り積もったことでしょう。
安祥松平氏の白山信仰は有名で、岡崎城の西には新田白山神社(徳川家康の氏社・ちなみに産土社は岡崎六所神社)があります。
そして、白山信仰の「布橋灌頂会(ぬのはしかんじょうえ)」における布橋は、この世とあの世の境界とされています。
「犀ヶ崖」については『東海道名所図会』に「昔、犀といふ獣、こゝより出でて海に入るより、この名を呼ぶ」とありますが、犀は日本には生息していないので「さい」は「西」でしょう。
これは【ここが墓地でこの崖を越えればあの世(西方浄土)】ということかと思われます。
また賽の神(塞の神)が祀られていたので「賽(塞)ヶ崖」とも。
◆
以上【武田信玄の進軍ルートを辿る旅】は、史実と伝承・伝説が入り交じった旅でした。
何が史実で、何が作り話(伝承・伝説)なのか?
徳川家康は三方ヶ原の戦いで敗戦した苦渋の姿を描かせ、この肖像画『しかみ像』を生涯に渡り、

実物大「立体しかみ像」(浜松市博物館城。徳川家康の身長は159cm)
自分に対する戒めのために座右から離さなかったと伝えられ――と思ったら現在は「後世に描かれた作品である」可能性が高いようで、歴史が不変ではないことを痛感させられます。
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今後も探求していきたいものです。
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【参考文献】
高柳光壽『三方原之戦』(→amazon)
小和田哲男『三方ヶ原の戦い―戦史ドキュメント (学研M文庫』(→amazon)
鈴木眞哉『戦国時代の大誤解 (PHP新書)』(→amazon)
※1「八幡大菩薩」が祀られていた「大菩薩山」は私有地で、現在は立ち入り禁止となっている。このため、「欠下城」碑は、山頂ではなく、山麓にある。
※2 武田信玄が本陣を構えたので「丸山」とも。松茸の産地で、奥山線の路線図には松茸がわんさか描かれている。
※3「山の際(きわ)」の「山」は丸山だという。「祝田坂を登り」ではなく、「祝田坂を下り」では?





















