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その日、歴史が動いた 豊臣家

秀吉の寝所に忍び込んでやらぁあ! 稀代の大泥棒・石川五右衛門が処刑される

更新日:

 

意識したわけではなかったんですが、8月は有名人や名所ネタが多い月となりました。
本日も日本人なら一度は聞いたことがあるであろう人のお話です。

文禄三年(1594年)の8月24日、稀代の大泥棒として有名な石川五右衛門が処刑されました。
歌舞伎での「絶景かな、絶景かな。春の眺めを値千金とはちいせえちいせえ」といった口上や、「釜茹で」という類のない処刑方法、はたまた某3世のチームメンバーなどアニメ・ゲームの元ネタとしてお馴染みですが、実際はどんな人だったのでしょうか。

石川五右衛門

一陽斎豊国 画『石川五右衛門と一子五郎市』/Wikipediaより引用

 

伊賀の忍者か あるいは秀吉に滅ぼされた大名家の者か

先日ご紹介した鼠小僧については、本人が白状したため生い立ちなどの経緯がわかっていますが、五右衛門の場合はほとんど不明といっても過言ではありません。
生まれた場所すら不明で、説が割れています。その中である程度筋が通っているのは二つ。

一つは、「伊賀忍者の出身で、師匠の百地三太夫の奥さんをかっぱらった上に愛妾を殺してトンズラ→盗賊になった」というもの。昼ドラというか火サスですね。

もう一つは、「秀吉に滅ぼされた大名家の家臣の家に生まれ育ち、長じてから秀吉への恨みを果たすために盗賊に(ry」という話です。
捕まったのは秀吉の寝所に忍び込んで見つかったからですし、後述の点も考えるとこちらの可能性のほうが若干高いですかね。

ちなみにこのときの狙いは「千鳥の香炉」と呼ばれていた名物でした。青磁器の本体に鳥の形をしたつまみがついており、現在は名古屋の徳川美術館に収蔵されています。

この「千鳥が鳴いて、侵入者の存在を知らせた」ので五右衛門は捕まったらしいのですが……寝るときに香を焚くなんてことあるんですかね? 着物に香を焚き染めるとか、純粋に香りを楽しむために焚くことはあったでしょうが、当時はアロマセラピーとかないですし。
伝説をマジメに考えてもしょうがないって? いやそれもそうなんですけども。

 

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連続殺人+不法侵入+窃盗+強盗

まあ何はともあれ、五右衛門が”千鳥”を目当てに侵入し、失敗の上捕縛→処刑されたのは事実です。
「たったそれだけで?」という気がしなくもないですが、五右衛門はそれまでにも窃盗や殺人を何回もやっていたのでこうなりました。今で言えば、連続殺人+不法侵入+窃盗+強盗あたりですかね。

現代の刑法だと死刑になるのは放火・連続殺人・強盗殺人など特定の犯罪と永山基準(知りたい方はググる先生へどうぞ)ですから、多分どの時代の法律でも少なくとも極刑になるのは確定かと思われます。
このとき母親や一味の人間も道連れに遭っていて、合計20人ほどが処刑されたそうです。

場所はイヤな意味でお馴染みの京都・三条河原でした。
処刑の有様は詳しく描写すると具合が悪くなってしまわれる方もいそうなので割愛しますね。一番有名ですし。

 

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世に盗人の 種は尽くまじ

ここでは辞世の句と伝えられている「石川や 浜の真砂(まさご)は 尽くるとも 世に盗人の 種は尽くまじ」の話をしましょう。

これは古今和歌集にある「わが恋は よむとも尽きじ 荒磯海(ありそうみ)の 浜の真砂は よみ尽くすとも」の本歌取り(パロディみたいなもの)と言われています。恋歌をもじって辞世の句にするとは、なかなか皮肉が効いて……じゃない、教養がうかがえますね。これまた本当に五右衛門が詠んだのかどうかは確かめようがありませんけども。

もし本当に五右衛門の作だったとしても、流石に釜に入れられてから歌を詠む余裕はなかったでしょうから、判決が下って処刑までの間に誰かに言い残したか書き付けが見つかったかでしょうね。
その場合は「大名家の元家臣」説が信憑性を帯びてきますが、はてさて。

 

秀吉も耄碌(もうろく)していた頃だっただけに・・・

ついでに、こんな処刑方法になったのは当時の秀吉が耄碌まっしぐらだったこととも少し関係しているようです。年号から何となく予測がついた方もいるかもしれませんが、誰も得しない朝鮮の役前半戦・文禄の役の最中のできごとでした。

このときはまだ一応日本側が勝ってました。が、庶民としては「日本が平和になったのに、何で太閤様は海を渡ってわざわざ戦をしに行くんやろ。アホちゃうか」と思っていたことは想像に難くありません。

戦となれば当然働き盛りの男達は兵として行ってしまいますから、治安が悪くなるのもこれまた当然。
五右衛門が繰り返した窃盗その他は、この状況を嘲笑うものでもありました。そのため、秀吉は斬首でもその他の極刑でもなく、釜茹でを選んだのではないかということです。

比喩じゃないほうの地獄絵図でもそういう描写がありますし、前田利家などがやったことあるっぽいので、他の例がなかったわけではないようですが。

多分秀吉は見せしめのために釜茹でを選んだのでしょうけども、評判落ちてるところにンなことしたら余計支持率が下がるんじゃないかとか考えなかったんですかね。ストッパーだった弟・秀長は既に他界していた時期なので、誰も止められなかったんでしょうか。

家康あたりからすると秀吉の評判が下がるのはむしろ大歓迎だったでしょうから、かえってワッショイしてたなんてこともありそうです。さすが狸。

 

長月 七紀・記

 

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参考:石川五右衛門/Wikipedia

 

 




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